Asagaya Parkside Gallerie
記憶写真
「きょうてい（怖い）歯医者」
村には歯医者が２つあって１つは学校のそばに、もう１つは私の部落の
中にある。「鳥飼医院」という名前で、昔からあるので、クラスの大半は
そこだ。でも、誰もよく言わない。泣く子がいると怒鳴るとか、ガリガリ、
荒くて痛いとか、詰め物がすぐ取れた（それで、治してもらいにもう一度
行ったら、「噛み方が悪いんじゃ」と逆に怒られた）とか。
うちの母は別で、あの先生は腕はええよと始終通ってる。私は、べたっと
後ろにした白髪と金縁メガネが好きではない。それに、受付にいる奥さん
も外人みたいに化粧が濃くて、色気違いのようだ。
母が買い物から戻ってきて、溜息をついて台所の上り口に腰をおろした。
「ユウちゃん、醤油屋にうどんの玉が切れとった。せっかく出かけたのに。
ちょっと、ケンちゃん家まで行って買って来てん」
ケンちゃん家は東のはずれで、豆腐や酒を売っている。おじさんは父の
すぐ上のお兄さんだ。でも遠いので、普段は近くの醤油屋（ここも親戚だ）
で買っている。
「うん、ええけど。５円くれたら、行っちゃらあ」
「あほっ、せえじゃったら、うどんがもう１玉買えるが。そういうこと言うん
なら、もうええ！」
それでも、私は５円余分にお金を握って、自転車を走らせた。
ケンちゃん家はおじさんが２輪車で行商をやってるので、いつも店には
おばさんがいる。お菓子とかおもちゃは置いてない。だから前を通っても、
めったに寄らない。
行くと、奥に一人お客さんがいた。おばさんの向かいに座って、ガラスの
コップを口に当て、なにやら話してる。こげん、明るいうちから酒を飲んで
からに、誰じゃろうと窺う（うかがう）と、歯医者の鳥飼先生だった。
「・・熱〜い、熱〜い、キスでのう・・。そりゃあもう、忘れられんぐらいの
もんじゃ・・・」
私は、棒のように突っ立ってしまった。
「せえでも、結局、高うついた・・十万円じゃ、・・一回がのう・・・」
おばさんが、私に気づいてニヤッと笑って目くばせした。それから腰を上げ、
「まあ、それでも、ええ思いをしたんじゃけん、今になって、だまされたから
って、どうにもならんが・・・なあ、子供には難しいわなあ？」と私に問う
ように出て来た。先生はジロッとこっちを見て、けど、またコップを持って
「フンッ・・・１回、十万円のキッスか・・」と言い、グイーとやった。
それから２カ月ほどして、学校で歯の検診があった。列の向うに、白衣の
鳥飼先生がいた。もし、顔を覚えとったらどげんしよう、ドキドキして順番を
待った。けど、先生は私の顔も見ずに、「・・うんうん、下の左奥歯がＣの２、
それと・・」と言うだけで、まったく気づいてるようではなかった。
検診の結果は、虫歯が２本だった。「早うに行かんと穴があいてしまうよう」
母にせっつかれたが、あの立ち聞きの事があったし、歯を削られるのも
怖かったので、ぐじぐじと引き延ばした。それでも、ある晩どうにも我慢が
できないくらい痛みだして、翌朝、一番で鳥飼医院に連れていかれた。
「何で、すぐに来なんだ？」見るなり、先生は言った。
いや、なんぼ催促しても行きたがらんので・・側にいた母が答えると、私を
じーっとメガネの下から睨み、
「そげん、歯医者に来るのが、きょうてい（怖い）か？」と聞いた。
口を開かされたまま、私は「ふぁふぁん、ふぁふぁふぁふぁふぁふひゃ（ううん、
まだ痛くなかったから）」と返事をした。
毎週通うことになった。
学校が終わり、夕方行くと、大抵、電気のついた診察の部屋に、私一人が
座らされる。奥さんも、看護婦の人も帰ってしまって、誰もいない。
緊張で、ビニールのスリッパの中が汗だらけになる。先生はマスクをして、
何もしゃべろうとしない。白い小皿の上で、ネバネバしたゴムのようなものを
混ぜている。それから、こちらを向き、顎で「口を開けろ」という仕草をする。
おそるおそる開く。ぐっと、顔が前に近づく。「あっ、あっあああー」
「こらっ、まだ何もしとらんだろが、バカもんが！」
せえでも、ホンマにきょうていでえ、「熱〜い、ＸＸ」が迫るようで・・。
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