Asagaya Parkside Gallerie
記憶写真
「百万円の家」
百万円の家が出来た時は嬉しかった。人生で二番目ぐらいにうれしかった。
(一番目はまだ決まってなくて二番目は他にもあるけど。)
家は前の借家の50メートルほど西に建てられた。百万円というのは母に
”なんぼうするんでえ”と聞いたら”・・じゃあ”と教わった値段だ。
私は緑組(幼稚園)の全員に「百万円じゃあ、百万円じゃあ」
と触れまわった。おかげで棟上げの時は大勢友達が下に来て私が投げるの
を待っていた。「こけえおれえよう(ここえおれ)わしが落とすけん」
言ったものの始まってみれば私の餅袋はない。小いさかったから。
しょうがないから本家のお祖母ちゃんの袋の餅に手を出したら
「ううん!こりゃあうちのじゃがあ」とはじかれてしまった。(若かったなあ
お祖母ちゃんも)もうこのまま飛び降りようかと思ったが、幸いセツねえちゃん
(後で家を建ててくれた大工さんと一緒になった母の妹)が
「ほら、こりょう投げられえ」と分けてくれたんで足を折らずにすんだ。
ものすごい人だかりだった。網を持った人もいた。「T芳」(線路向こうの部落)
のもんじゃあと父が言っていた。
引越しの日さっそく私は黄色いアルミ鍋を持たされ駆け足で運んだ。台所の
上がり口にそれをドカンと置くと母が中から
「重てえのにごくろうさん、無理せられなよう」と声をかけてきた。
あんな機嫌のいいの見たことなかった。兄たちも皿やら薬缶やらかかえて
走ってきた。どっちが速ええか競争じゃと一番上の兄が言って、後ろにいた
すぐ上の兄が”ずりい(ずるい)ずりい!”と追っ掛けてきた。
日頃手伝わない姉が玄関の床を雑巾がけしていた。
「あっ、ここはきれいにしたんじゃけん上がっちゃあおえんよ」
どこもかしこも触るのが勿体ないほど新品だった。
回りが全てスレートで囲われた真白い(当時の印象では)家だった。
自慢の部屋が二つあった。一つは茶の間。細かい砂の混じった抹茶色の土壁
に杉の皮で組んである天井だった。見上げていると皮の一枚一枚が童話に
出てきたおもちゃの兵隊の行進する姿に見えてきた。
もう一つが子供部屋。床にワックスが塗ってあってツルツル滑った。東と南に
作りつけの長い机が取り付けられており、上は全部窓になっていた。手前には
子供の数だけ(4つ)ばねの効いた椅子が置かれていた。西の壁には2段ベッド
が備えられ、前後には小さなはしごがついていた。そして部屋の中のすべて
(ベッドさえも)が水色に塗られていた。
毎日友達を呼んでは見せびらかした。遠くからも噂を聞いて人が訪ねてきた。
「ええ家が出来たそうなあ、なんでも瓦あ使こうとらんそうじゃが・・」”
「変った風呂じゃそうじゃけど、ほーうタイル張りで中で座れるんですか・・」
「長え廊下じゃそうなが、はあーどの部屋にも行けるんですか・・」
「風流な天井ですなあ、お茶が点てられますなあ・・」
「なんとまあー明りい勉強部屋ですなあ、線路の向こうまで見渡せますなあ」
庭にスモモ、びび、梅の木が植えられた。子供部屋の東側にぶどう棚が作られ
玄関の横に笹、西日の当る茶の間の前に、へちまと朝顔が這わされ鉢植えの
菊が置かれた。父が毎日毎日手入れした。もうどこも空いたとこがねえと言い
ながらパンジー、アヤメ、グラジオラス、矢車草で埋め尽した。
ある日私が聞いた。「なんで枝豆とかすぐ食べれるもん植えんのん」
あははと笑い「ユウちゃん、食べるんより見て楽しむほうが上でえ」と言った。
さすが”百万円の家”を建てる人は言うことが違うとる。
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