Asagaya Parkside Gallerie 記憶写真

「水中金閣寺」

家に泥棒が入ったことがあった。姉が小学六年生で京都に修学旅行に行って
帰って来た日のことだった。私は三歳だった。
当時私たちは父の実家の前に借家をして住んでいた。私たち四人はそこで
生まれた。その家は、六畳の畳の部屋と四畳半の板の間の台所、後は煮炊き
する土間、玄関の上り口にやはり米櫃を置いた土間があった。玄関はガラス戸
が二枚、ちゃんと鍵も掛った。裏口を出た所には井戸があり、父の実家と共同で
使っていた。出入りが頻繁だったためか、裏口は木戸一枚を左右に開け閉めす
る簡単なものだった。鍵は夜に寝る時だけ、棒を立て掛けておいた。

その日は朝から、私とすぐ上の兄とで
「なあ、おねぇちゃんいつ帰るん、いつ帰るんでぇ」と母にしつこく聞いた。私達
は、姉が買ってくると約束した土産を楽しみにしていた。もう時の経つじれったさ
に体が捻じれて、どうにかなってしまいそうだった。(ちなみに大人になるにつれ
このような想いをすることが無くなってきたのは、私だけだろうか。)
姉は皆が夕食を終えた頃に帰って来た。話は尽きなかった。
大仏さんの鼻の大きさは、人が入れるんよ。
鹿にゃあ、煎餅をこうて(買って)やらんとおえんのよ。
清水(きよみず)から下あ見たらなあ、足がすくむんよ。
まぁ旅館の味噌汁のうしい(薄い)こと、うしいこと・・・。
おみやげは弟達に一つずつあり、私には大阪城の刻印された黄色い鉛筆。上の
兄には大阪城の、こちらは下敷き。一番上の兄には、大仏さんの文鎮。そして
皆に京都の「八ッ橋」と、自分用に水中ガラスに収まった金閣寺の置物。姉が、
それを振ってみせてくれた。皆、「おぉおー」と歓声を上げて、水中ガラスの中に
見とれた。(これはその夜一番の見世物だった。逆さにした途端、細かな銀片が
ガラス玉の中を覆い、再び戻すとそれは雪に変って金閣寺に舞い降りていった。)
次の日、「まあー、はぁれぇー。はぁー」という母の声で目が覚めた。
父が「どしたんなら」と飛び起きて台所に行った。
「ありゃー突っかい棒が外れとらあ、泥棒じゃあ」
一斉に皆も起きて隣に行った。
「もーう一粒も残ってねえ空じゃ、ぜーんぶ食べられたが」
母が夕べ取っておいたはずの、ご飯のお櫃を覗き込んだままへたり込んでいた。
「こりゃあよっぽど腹が減っとったんでえ」と感心した様に父が言った。
「せっかく、けさ食びょう思っとったのにどげんすりゃあ」と母。
それからその後、すぐに誰かが気付いて言った。
「あっ、”八ッ橋”がねえ」

私はその時の台所の情景を、今もはっきり覚えている。
完璧に平らげられたお櫃。そばで転がっている「宮島」の杓文字。まあるい卓袱台。
上に載った前の晩、皆で飲んだ湯呑み茶碗。きれいに折り畳まれて置かれた、
みやげ物の包み紙。そしてその横に難を逃れ、雪の中で輝く
”水中金閣寺”。

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2007/12/02記憶写真
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