Asagaya Parkside Gallerie
記憶写真
「琴姫先生〜足の爪」
授業が終わって、４年Ｂ組のツウちゃんの教室でプロレスごっこをした。
対戦者は藍草一郎ちゃん。３年までは勉強が出来たのに、今は性格の良さと
腕力だけが売り物のレスラーだ。レフェリーはツウちゃんで、テレビのプロレス
の審判「おきしきな」にそっくりなデブちんなので、おめえのほかにゃあ、だれも
おらんわという役所だ。
さあ、ＳＳＳ（Ｓ村Ｓ小学校略）チャンピオンマッチ、"ブルーグラス"（藍草君の
英語読み、リング名）対"頭突き２８号"（当然、私）、戦いが始まりました。
まず頭突き２８号、得意の「脇の下鳴らし」（レスラー「豊登」の持ち芸）で威嚇し
ます。おっと、これに動じません、ブルーグラス、あくまで真っ正直を貫きます。
あっ、ブルーグラス、いきなり、頭突き・・を抱え込みにいきました。
持ち上げたあ、あっ！
ズギィっとにぶい音がした。私は脚を折り曲げ、床に座り込まされていた。一郎
ちゃんの手がゆっくり離れていった。立とうと膝を浮かしたら、下がしびれた感じで
うまく力が入らない。もう一度やろうとした時、右足が”びりっー”ときた。
油汗が浮いてきて、目をつむってがまんしようとしても、涙も滲んでできた。
二人に両肩を支えてもらって、教室を出た。
校庭に立つと門がずっと遠くに見える。こりゃあ、とてもじゃねえけど家まで帰れん
でえ、そう思いながら、片足を引きずり横断を始めた。
やっと講堂の前まで来たとき、中から人が出てきた。白のトレパンに紺のジャージ、
うす桃色の少し吊上がったセルロイドのメガネをかけている。
「ツウちゃんどうしたんでえ、怪我でもしたんかなあ？」
琴姫先生だった。
「藍草君とユウちゃんがプロレスをやっとたら、ユウちゃんが落とされたんじゃあ」
「ちょっと見せてみられえ、どこが痛えんでえ？」
私は脇を支えてもらったまま右足を上げ、くるぶしの部分を指差した。
「まあ、ぼっこう（ずいぶん）腫れとるがあ、すぐ保健室に行かにゃあ。あたしの
首にしっかりつかまりねえ」
先生は私の腕を取ると、そのまま抱え上げた。痛みで引きつってた頭に、嗅いだ
ことのない甘ったるい匂いがかぶさり、一瞬、どっちに気持ちを集中しようか、
分からなくなった。急に、男らしゅうせんといけんと思い、ソデで涙のあとをこすり、
平気の顔を作った。二人も心配な顔でついて来ようとしたが、もうええからと帰ら
された。
運ばれる間、「大丈夫かな、痛とうねえ？」と聞かれたが、背中に回した手を
どこに落ち着けたらいいか気になって、答えるどころではなかった。
保健室に入ると、ベッドに横にさせられた。保健の女の先生と、こういう時には、
どうすりゃあ、ええじゃろうかと相談が始まり、取り合えず、酢で冷やすのがいい
だろうと話が決まった。しだいに、足首のズキン、ズキンとするのが大きくなって、
平気の顔もしてられなくなった。洗面器にどぼどぼと酢が注がれた。部屋中に、
目が開けてられないほどの空気が充満した。「強えなあ・・」
保健の先生がそう言ったのは、私のことではなく、臭いの方だ。
「ソックスを脱がすよ、ちょっと痛てえよう」琴姫先生が、足に手を伸ばした。
「ヒャー！」ほんのちょっと触れたのに、飛び上るほど痛い。
「がまんせられえよ、男じゃろう」そうは言われても、勝手に声が出てしまう。
「アッー、ウウー」
「困ったなあ、これじゃあ消毒でけんし、ソックスを裂くしかねえなあ・・」
ハサミが持ち出され、二人がかりでソロソロと靴下の口を開いていった。何十分も
かかったように思えた。取りさられた時は、肩がハーハー言って、頭もぼわーと
していた。それでも、どうにか自分の足は眺めることができた。
長〜く伸びた、真っ黒の垢がつまった５本の足の爪を。
結局その後、男の先生がやって来て、そんなことをしたら、かえって腫れ上がるよ
と言って、車で接骨院に運んでくれた。接骨院では「フムッ！」の一声でぐりぐりと
やられ、同時にピタッと痛みが消えた。
残ったのは「ああ、切っておけばよかったなあ・・」という思いだけだった。
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