Asagaya Parkside Gallerie 記憶写真

「消毒 」


まだ八月までだいぶあるけど、もう夏の最高記録のようだ。真っ先に
「ただいまー、なんか飲むもんちょうでえ」と言った。 裏から声がして、
「あっ、お帰り。麦茶飲みねえ、氷入れてあるけん。今日は消毒よう。西の方
からじゃけん、あと3時間は家(うち)ん中へはいれんよう」
行って見ると、母も先に帰ったらしい姉も庭に椅子を出して座ってる。そばに
茶碗や湯のみ、やかんが出ていて、夕べのご飯の残りも皿ごとお盆に載って、
あがり口の石段の上に置いてある。
「ほんなら、ご飯どうするん」
「ありゃっ、今日は給食なかったかなあ。忘れとった、土曜日じゃがあ。
キミ子(姉)も帰っとたのに、ぜんぜん考えなんだ。家ん中の物に布を掛けたり、
引出しん中を開けておいたりするのに忙しゅうて、気が回らなんだがあ」
「おかあちゃん、うちはいらんよう。痩せんといけん(いけない)かん」
「ほんなあユウちゃんだけかなあ、ちりめんじゃこときゅうりの酢のもんで食べ
ねえ。あと塩昆布で茶漬けすりゃあええがあ。ぜーんぶ、外に出してあるけん」
私は母に冷や御飯をよそってもらい、石段に座って食べた。2杯と3杯目は麦茶
で茶漬けにした。
「どげんな、満足したか。ええなあ、うちやこう(私なんか)さっぱり食欲がねえ。
あんたは、よう食べるのにほっせえ(細い)体して、どこに栄養が行きょんじゃ
ろうか」
「頭じゃ、頭!」

表の方でグワーンという音が近づいてきた。
「ありゃ、欽ちゃん家かなあ、そしたら次じゃがあ」母は玄関を開けに家の前に
回った。すぐに家の中にも大きなう鳴り音と白い煙が入って来て、廊下や座敷が
見えなくなった。私は、こげえな忍法が使えたらええのになあと羨ましく眺めた。
これぐらいでよかろうとおっさんの怒鳴り声で、消毒隊が出て行き、母が
「ぜっていに中へ入っちゃあおえん(いけない)よう。強えけんなあ、死ぬよお」
といつも通りのことを言った。
やがて母は近所で流行ってるビーズのハンドバッグの内職を始めた。
「こりゃあなあ、むこうじゃあ何千円もするんじゃてえ。こげん細けえ仕事が
あっちの人は出来ん言うてなあ」一袋編んで15円じゃのに。
姉は「明星」を見ていて、本間千代子と守屋浩が結婚するかもしれんと言う。
私は守屋浩の「僕は泣いちっち」が一番得意だ。
待つだけで何もすることがないので、縁の下を探索することにした。
「もーう、そげん所へ潜りなさんな、服が汚れるがあ」と言われたが聞かず 屈み
込んだ。なつかしいものが色々転がってた。正月に無くした銅駒、お祭りの夜店
で10円もした水鉄砲、家を建てた時のスレートの瓦(平たいので川で飛ばそうと
取って置いたものだ)。やることが急に増えた気がした。
「もうそろそろええかなあ、色が薄うなったがあ。2時間経ってねえけど大丈夫
じゃろう」
母がそう言って、縁側のガラス戸から中に入った。後ろからついて上がると、
家で使ってる蚊落しと同じ臭いがまだ強く籠ってた。
あわてて、三人して窓という窓を開けて回った。床や机にポツリ、ポツリ、蠅や
蜘蛛が落ちてる。
「はあ、そげえに死んどらんなあ、ちょっと早かったじゃろうか、せえとも
(それとも)今年は虫が少ねんじゃろうか・・・」

母の言うどっちかは分らないけど、私には、この日年に一度消毒の終わた
部屋が新しい学期の始まりのように思えた。


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