Asagaya Parkside Gallerie
記憶写真
「大当たり(2)」
太陽が真上から照らす7月のことだった。その日は土曜の半ドンで私と同じ
二年生のマアちゃんとで、「ううー水」の呪文を唱えながら学校と家の中間に
ある部落まで帰って来ていた。もう何でもいいから早く喉に流れるもの入れ
たいとの想いだった。マアちゃんが
「うー、ユウ(私)ちゃん”徳一”でなんか飲みてえのう。ちょっと寄ってみんけぇ」
と言った。学校の帰りに何かを買って食べる”買い食い”は規則で禁止されて
いた。マアちゃんはそんなこと気に掛けるふうもなく「徳一」の前まで来ると中
に入っていった。
「おばちゃん、なんか飲むもんちょうでぇ」
「ああ、マアちゃんかなぁ、ラムネでも飲みゃぁええがぁ」
驚いた。顔なじみだった。それだけでなく、笑顔までつくって奥から出てきた。
私達が密かに”徳一のおにばばぁ”と呼んでいたのとはまったくちがっていた。
「こっちの子ぅは、なにゅう飲むんでえ」
「・・・わしゃあ、・・・わしゃ、ええわぁ」
「ユウちゃんは、なんも飲まんのんかぁ。金あるでぇ」
「わしゃあ、・・・のどがかわいとらん」
私はマアちゃんの飲んでるラムネをできるだけ見ないようにして、下に並んで
いたガムやらニッキやらを見ているふりをした。そうして、すぐにガラスの蓋が
してある40センチ四方程の平たい木箱に視線が止まった。
「そりゃあなあ得でぇ、ぼっけぇ(ものすごく)得でぇ。」
すかさず、おにばばぁが言った。
中に入っていたのは大型葉書ほどのわらび餅で上に食紅を使って「鯛」の絵が
描かれていた。他にもたばこ位の大きさの「蛸」の絵が描かれたものと、何も描
かれていない消しゴム大のものが各ひとつずつあった。
「はえぇもん(早い)勝ちでぇ。そりゃあ、一等、二等が残っとんでえ」
一等は「鯛」、二等は「蛸」、何も描かれていないのが「スカ(はずれ)」だった。
(このくじには他に三等「海老」、四等「穴子」があった。私のそれまでの最高賞
は四等の「穴子」だった。私はこのくじのわらび餅が大好きだった。「鯛」を当て
て思う存分食べるのが夢だった。)
「はようせにゃあ(早くしないと)のうなる(なくなる)でえ」おにばばぁが追い打ち
をかけた。確かに蓋の上に乗っかったくじ箱には三枚の三角くじしか残っていな
かった。私は焦った。
「マアちゃん、わしゃあ先ん帰らぁ」
そう言い残して、私は日差しが照りつける道へ飛び出して行った。三つのくじを
引くには十五円が必要だった。頭に描くのはまず五円の小遣いを協力してくれ
そうなのは誰かということだった。一人はすぐに決まった。すぐ上の兄だ。兄も
この”くじ”のわらび餅が好きだった。あと一人、これも難なく決まった。
信ちゃんだ、信ちゃん以外にいない、こんないい話を打ち明けられるのは。そう
でなく、他の者に言ったら先に買いに行かれてしまうだろう。マアちゃんは、何の
興味もないことがあの場の反応で分っていた。信ちゃんに言おう。
そう思い、喉の乾いていたのも忘れて家に駆けた。
信ちゃんは私より一級上で家は道を挟んで四軒隣だった。日頃、私は信ちゃん
の”一の子分”を自称していた。(この頃私は映画で見た「東映」時代劇の股旅
ものに憧れており、次郎長の一の子分「大政」を気取っていた。)
まず道すがら信ちゃん家に行った。信ちゃんは二つ返事で応じてくれた。
(信ちゃんは私の頼みを断ったためしがなかった。逆に信ちゃんから私が頼み
ごとを受けたことは、一度を除いてしかなかった。それもずっと後、中学生に
なってのことだ。)兄は他に誰が行くのか聞いた上で
「しょうがねえのう、わかった。ほんなら行っちゃらあ。自転車ぁ出しとけぇ」と、
これまた渋々だが応じてくれた。
私達は太陽を背に、2台の自転車に乗り(兄の自転車の後ろに私が乗った。)
「徳一」へと向かった。
(次回に続く)
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2008/01/27大当たり(1)
2008/01/20兄のデビュー(2)
2008/01/13兄のデビュー
2007/12/30水中金閣寺
2007/12/23記憶写真