赤枝 郁郎(いくろう) 大正12年東京に生まれる
4歳の時、父親の実家、岡山に戻り岡山大学医学専門部を卒業。
広島通信病院勤務。応召、終戦。原爆治療に従事。
岡山大学より医学博士号を受ける。山陽放送の
全国初のラジオドクター、週刊誌、雑誌、新聞にエッセーを掲載。
その後、仏門に帰依し草庵にて泥仏を制作。
チャリティ寄金で教育賞を制定。NHK深夜番「心のエッセイ」で特選。
心臓病センター榊原病院顧問。
平成22年没。87歳。
赤枝先生が建部に来られたのは平成2年。今は閉館となった建部町国際交流ヴィラ、建部町国際温泉会館が開設された年だ。
その施設の一つ「TAKEBEおもちゃの宿」に赤枝先生が収集した日本全国の玩具5千点を寄贈したことが縁で、
隣接する場所に泥仏制作工房「寂照庵」を建てた。先生曰く「仕事を減らして趣味に回し、趣味を生かして地域のために」
工房でお年寄りの町民を対象に泥仏教室を開校。観光客にも開放した。
毎週、土曜午前中の診療を終え、岡山の自宅を出て津山線電車に乗り建部に到着。月曜日の午後まで、
泥仏の制作の合間、庭の手入れや、来客の応対、夜は温泉に浸かり、お勤め(お念仏を唱える)こんな生活を
10年以上も続けられた。
現在「めだかの学校」に展示されてある泥仏はおよそ120体。生前、先生はどれほどの数の泥仏を制作したのだろう。平成11年に出された「寂照庵独りごと草子」には、
「ぼくが、いつの頃から、どんな切っ掛けで泥仏さんを作るようになったか、今もって思い出せません・・・もう何千体の土いじり泥仏さんを作ったことでしょうか。
ひょっとしたら、万の単位になっているかもしれません・・・」と書かれてある。
先生のアルバム帳にはその制作の風景が残されている。
先生の泥仏さんにはいくつかのスタイルがある。小さなミニ仏さん、やさしい顔の如来様、怖い顔した鬼仏さん、そして素朴な表情を持つお地蔵様。
特にお地蔵さまがお気に入りだったようで、先の草子にも「お地蔵さんの位は菩薩さんです。菩薩とは、如来になるための努力をしておられる仏さんです。地蔵菩薩さんは
、この世の総てのものが救われるまではこの世に留まって如来にならないという発願をされている菩薩さんだそうです。ですから、いつも、私たちの側にいて、みんなから
一番慕われているのでしょう・・・」との記述が。。
泥仏教室に長く通った思い出のある土井川真澄さんに当時をお聞きしました
「まあ、先生いうても、あんな、お人じゃけんなあ。格式ばったことはねえ、じゃけん誰も敬語を使うでもない、隣のおじさんいう接し方じゃ。
最初は、こんなのがある言うて聞いたのかなあ。岡山市内の方らも来て、町内から私含めて15〜6人、いたかなあ。
指導?そんなものは、ありゃあせんよ。
胴体を空洞にして、頭も空洞で乗せて耳を付けるぐらいのこと。じゃあないと、焼くときはじけるけんなあ、そうすると隣の作品を壊すから。それぐらいかな。
いつじゃったか、土井川さん、あんたの仏さんはワシのによう似とる、間違って色を付けてしもうた、こらえてくれえのう、
と言われた。嬉しかったわあ、誉められたみたいで。私も凝り性じゃけん、つい必死で作るが、そうしたら仏さんの顔が父親のようになってきたりして・・・」
「ぼくは今、草庵の庭を大改造、”愉快な仏さまたちの庭”にしようと土方仕事に大奮闘中です」先生はある日、庭にこれまで作った泥仏さんを
一堂に並べる構想に着手。それが巡りめぐって「めだかの学校」の春の小川にやって来る。
「うれしい時は合掌、つらい時はお念仏、あとは万事仏さんにお任せのこと(”寂照”と銘された石碑の文字)そんな庭に仕上げたいもの。”極楽のぞき眼鏡”も考案中です。
二十一世紀はどうなることやら、この庭に来て、この眼鏡をのぞいて見て下さい。安心安心」
*(注)「寂照庵」は今は在りません。
では仏さまをいっしょに巡ってみましょう。気に入った仏さまを見つけたら自分だけの名前をつけてみて。
きっと何げない泥仏さんがグ〜ンと身近になることでしょう。
(ちなみに下の名前は三宅美恵子グルメレポーターがつけました)
「いないいない婆(ばー)さん」「なん蛇(じゃ)大魔王」「リラックスマイルさん」「大五郎くん」
「聴きミミズクさん」「おでん大魔王」「やっ太ー地蔵さん」「耳をすませ婆(ばあ)さん」
休館日 毎週火曜日・年末年始
開館時間 午前9時30分〜午後5時
<入館料>
大人 300円 子ども 100円(中学生まで。小学生以下は無料)
<アクセス>
JR津山線 福渡駅下車 徒歩25分
車/国道53号大田交差点から5分
めだかの学校の地図を見る(←クリック)
<住所>
〒709-3145 岡山市北区建部町建部上609
岡山市環境学習センター めだかの学校
п@086ー722ー1231 FAX 086−722-3100