”十年一昔”(じゅうねんひとむかし)とは、世の中の変化が激しく10年前が昔のように感じること。しかしあるアンケート調査によると現代の感覚では「一昔」は5年を指す人が多い。
たしかにこの10年、さまざまな出来事が我々の身の回りで起きた。最大は今も直面している「コロナ災禍」コロナ後、コロナ前と評されるほどに人々の生活を一変する出来事となった。そして、ここ岡山においては2年前に起きた「西日本豪雨災害」。これもそれ以前からの安全神話の崩壊を思い知らされた。
時代はこの10年の間に反省を加え改善し、より良い方向に進むと思いきやますます混迷へ。
東日本大震災から10年を経て、あの時と対峙した人たちは今、何を思っているのだろう。
震災をきっかけに岡山に避難して来られた方にお話を伺った。
(レポート 三宅 優)
*お話をお聞きした方のプロフィール(敬称略・50音順)
*大塚 愛(あい)
岡山市育ち。
岡山大学教育学部卒業後、1999年より福島県川内村に定住。
農業をするかたわら、4年の大工修行ののち大工としても働く。
2011年3月の東日本大震災による福島第1原発事故を受け岡山へ避難。
福島や東日本の子どもを放射能から守ろうと同年に「子ども未来・愛ネットワーク」を設立。
2016年より岡山県議会議員。北区建部町在住。
*勅使河原 克利(かつとし)
宮城県生まれ。
2011年の震災で家屋の一部損壊被害。
福島第一原発事故後、家族の体調を心配し移住を決意。
同年10月に岡山に移り住む。
その後、市内に勤務する中、農業に従事。
無農薬、天日干しの米作りや味噌醤油作りに励む。
2020年「農家と作ろう味噌・醤油作りの会」を結成。
現在、岡山への移住者支援を行う「おいでんせぇ岡山」メンバーとしても活動。
北区御津在住
*服部 育代(いくよ)
栃木県生まれ。
子どもの出産を機に、子育て支援NPOに関わる。
2011年、原発事故を受け、縁あって岡山へ自主避難。
以来、震災により岡山へ避難した人たちのサポートを行う。
現在、一般社団法人「ほっと岡山」代表理事。
北区建部町在住。
*(聞き手)勝部 公平
(勝部)
「東日本大震災から10年を経たわけですが、今日お出でいただいた皆さんは同時に起きた原発事故をきっかけに岡山に来られました。その時のこと、それからのこと、そして今について振り返りを兼ね、お聞きしたいと思います。はじめに、3.11当日の状況についてお話しいただけますか」
(大塚)「私は20代のときから12年、福島県の川内村でそれまで暮らしていました。3.11の日は震度6で、津波が来るところではないので安心だったのですが、近くに原子力発電所があることが心配でした。
実際、事故が起きて、その日の夜には自宅を出て2日かけて一家で岡山へ避難しました。川内村は30キロ圏内で、それからすぐに村民全員が避難することになりました。その夏から私たちは建部町に住むようになりました」
(服部)「私は栃木県の生まれなのですが、3.11のときは東京で暮らしていました。
その日は東京も揺れて、子どもの迎えから帰ってきてネットを観て地震後の福島原発が心配だとわかりました。でもどうしていいかすぐには動けないし、3月18日にとりあえず名古屋に避難して、それからまた東京に戻って8月に入って人のつてで津山に来たんです。
子どもが砂をかぶって遊ぶのを見てここ(岡山)でいいかなあって思いました。建部には(大塚)愛さんから竹枝小学校を紹介されて越して来ました」
(勅使河原)「その時は仙台でタクシーの運転手をしているときで、被災者探しとかする毎日でした。(原発事故の)情報を見ると、たしかに野菜は苦いし何かおかしいと思い移住を考えました。直接のきっかけは、3歳の下の娘が、自分の子どもは指があるかなあって言ったのを聞いたことからですね。放射能から逃れる方がいいと。
それで6月頃から動き出して、家が一部損壊だったのですが岡山市では一部損壊の人にも市営住宅の提供ができるってことを聞いて、担当の人から何も持たないで来ても大丈夫ですよって言われて、これはいい所に違いないと思いました(笑)。
とりあえず2週間、休業届けを出して岡山に住んだんですが気に入ったので、帰って退職願を出して2011年の10月に引越しました」
(勝部)「私はその時は定年退職して当然、ここにいたわけですけど、実家(岩手)の兄が養豚業をやっていて、
携帯は音信不通で2日間連絡が取れずだったんです。
状況がわかってからは豚のエサの手配を西日本を中心に集めて、高速が使えないので下の道を走って届けに行ったり、種豚の移動を手伝ったりしました。宮古に住む従弟がボランティアをしている姿がテレビに映っているのを観て生存を喜んだのを覚えています」
(勝部)「岡山に来てからのこと、今にいたるまでの心境をお聞かせください」
(勅使河原)「たまたまなんですが、来て翌々年に岡山の新聞社が3.11で私のことを取り上げてくれたたんです。田んぼや畑を耕して生活したいと話したら、記事を読んだ読者の方が、自分の家を使っていいよと言って下さって、それで今の御津に来たんです。ホント、何が縁になるかわかりません、そういう意味でも恵まれてるなあって思っています。
それからは、市内に勤めながらひたすら農業をやって来ました。今は田んぼと畑で1町歩ほどやっています。お米はすべて無農薬、無肥料、天日干しです。古代米も作っています。
昨年には、自分たちで作った大豆、米、麦で味噌と醤油を作りはじめました。”農家と作ろう味噌・醤油作りの会”と言います。麹(こうじ)も手作りです、間もなく仕込みが始まります。一つの職業としてとらえても、米と味噌が出来れば生きていけると考えています」
(勝部)「今は経済優先の時代で、立ち止まって考えるゆとりもない。同じ先進国といっても、ヨーロッパのような人を優先したものの考え方が日本にはない。一極集中ではない日本をぜひ実現しないといけませんね」
(勅使河原)「震災があった後、お金はあってもモノが買えない、そんなことがあってピンと来て、自分で食べるものは自分で作らなくてはと思いました」
*下記写真:今年、自家製味噌の仕込み
(服部)「私は、そうですねえ、この10年、被災者支援に関わってきて、
ずっと支援に走りながら考えたような、ホント、振りかえるってことなくやって来た感じです。
でも5年ほど前、阪神大震災の集まりで”最後の一人まで支援”と聞いた時、そうか、被災者のとなりで
聴き続けることが大事なんだと知りました。
今も、東日本大震災の被災者支援組織”ほっと岡山”で
震災からの避難者支援だけでなく、災害の経験をいかせるよう、防災・減災の取り組みもはじめました。
毎月、こういった情報交流の機関紙”ほっとおたよりNEWS”も発行していて、避難者、移住者、地域、広域避難者と多層なつながりを持ち続けようと考えています」
*下記写真:毎月発行の「ほっとおたよりNEWS」
(大塚)「3.11原発事故で、それまで1から自分の手でつくってきた暮らしを全て失うことになり、
自分の一部が死んでしまったように感じました。
それでも、自分に何か役目があるのではないかという気持ちが生まれて、岡山に避難してからは、今必要とされていることから
始めていこうと決めて、動き始めました。
福島の子どもたちの保養を岡山で受け入れることや、避難移住者のサポートを始めてからは、まるでスーパーマンになるスイッチを押されたみたいに、すごいエネルギーで動いていました。でも、そんな支援活動を3〜4年続けた時に、ふと気が付いたのは、支援を提供している中で、同時に震災で傷ついた自分自身が救われてきたということでした。
震災後はアルバムを見るのが辛かったけど、5年くらい経った頃から、少しずつ見ることができるようになりました。でも、3.11のあの夜、最後の夕食となった肉じゃがは今も作る気になれません。
放射能の汚染はだいぶ落ち着いてきて、今は不安もなく福島に行くことができていますが、子ども達もここに馴染んでいますし、生活を再び福島に移すことは考えていません。
原発事故が起きなければどれだけよいかと思ってきましたが、事故があったからこそ得られた出会いや社会の変化もあったと思います。
今は議員として日々頑張っていますが、毎年3月を迎えると、3.11のあの時に気持ちが戻ります」
*下記写真:渋川で福島の家族を招き保養
(勝部)「あれから10年、どういったお気持ちですか」
(服部)「震災から10年経って避難者の生活も落ち着いて来たと捉えられる反面、”語りにくさ”が増しているのではと感じます。
話を受ける人によっては”今さら避難者でもないだろう”とか”もう、向こうに戻ったら?”といった覚めた見方があるのも事実で、もっと社会の寛容さが必要ではと。
避難者やシングルマザー、貧困者が辛かった、大変だったことを外の人に聞いてもらえる、言いにくい社会をなくしていけたらと考えています。
それと(原発事故の)避難については正義と悪のように分けたがるのですが、避難が正解でも、避難しない人が正解でもないわけで、岡山に避難した人の中でも帰還を考える人、
ここにいようと考える人がいるわけです」
(大塚)「そうですね、それはどれが正しいということではなく選んだ選択がそうだというだけで、白か黒かでは分けられないですよね。
原発も賛成、反対だけでは解決しなくて、互いが話し合うことこそが大切で、そのように変えいきたいですね。
それと私のライフワークとして代替エネルギーを考えて行きたい。これからはCO2も減らさなくてはいけない中、原発を再び動かそうとすることが気がかりです」
(勝部)「それに関しては、日本として10年先どうしていくのかプロセスがはっきりしないとどうにもならない気がします。そのプロセスの中で社会をどう描くのか、白黒だけではなく」
(勅使河原)「ある人には白が黒、ある人には黒が白に見える。僕は要は、自分で考える力を身につける、自分の頭で考えることをしないと何も変わらないと思います」
(勝部)「最後にここに移り住んで、これからどうお考えですか」
(大塚)「私は旭川の下流で育ったので鮎が川をのぼるように旭川のそばに魅かれてここに来て、竹枝小が気に入って子どもたちもスクスク育っていて、この地にいることに感謝しています。
最近ですが、”水の存在に初めて気づいたのは魚ではない”という言葉を知りました。外からでないとそこの良さがわからないと言う意味だと思うのですが、今、空き家の活用の活動もしているので地域の良さを伝えられたらと思います」
(勅使河原)「今、住んでいるところにずっと住むつもりです。多面的交付金で溝そうじとか草刈りをやって日当がもらえるようになって助かっていて、私の地区だけでも4軒の移住者が住むようになりました。若い力を喜んでいただいているので、いいとこだなと思います。
できれば草刈機も使ったことがない移住者が多いので”トラ刈じゃのう”とか言わないでやさしく教えてもらいたいです(笑)。
これからも岡山は自給自足が可能ですよと伝えていきたいです」
(服部)「今、これまでのこと、子どもの制服をいただいたこと、来たばかりでよくわからなくて地域のおばちゃんに叱られたり(笑)、悲喜こもごも
いろんなことを思い出しますが、やっぱり、私たちもここに住みたいなーって考えます。
今はあまり地域に関わりを持てていないのが申しわけないのですが、それでも建部にもどるとホッとする。
子どもから家を建ててほしいと言われたことがあって、その時は気づかなかったけど家があればここに郷里を持てるのかなって思うようになりました」
(勝部)「ありがとうございました。御三方とも外でいろんなことをしてここに来られている。そのことがここで活かされる地になることを願っています」
[勝部編集長:後記]
振りかえれば今日まで、私もあの震災から多くのことを教わった気がします。
私が小学3年の時にはじめて行った海水浴で、海を見たのは東北の高田松原で、当時3万本の松の木が生えていました。
今はたったの1本が残っただけで、自然の力を痛感させられました。
また高校の同級生が青少年センターの所長をしてて日頃から避難訓練をしていて、その時もいち早く全員で避難した。
でも一人だけ家を見に行った職員がいてその方が帰らぬ人になったそうです。
また先ほどの宮古の従弟は北極縦断犬ぞり隊に参加したり経験を積んでいたので、この時もすぐに感を働かせ高台に逃げ、人や家屋や車が流されるのを目の当たりにしながらも難を逃れた。命を守ることほど大事なものはないとつくづく教えられました。
あれから10年、人の記憶は風化していきます。
そうしないためにも防災キャンプなど継続的体験講座、岡山の子どもを東北に派遣交流するなどの体験活動を続けることが必要だと考えます。
(編集・写真 三宅 優)