コロナの災禍、昨日までの日常は、これから危機と危機のわずかな合間となるのだろうか。気候変動による自然災害は毎年のように襲い掛かり、必ずやって来るという巨大地震への残された時間は確実に減っている。我々はまったく新しい危機の時代へ突入した。
それでも救われる思いがあるのは、それが人間の争いによる災禍ではない点。人が殺しあう戦争は今や勝者は存在しない。疑心と憎悪でとことん滅ぼした末に残るものは何もない。
昭和20年、敗戦直前の原爆投下、そしてその前に起きた「岡山大空襲」。新しい危機の時代を迎え、今あらためて「日常が危機」だった頃の記憶を伝え聞き、生きるとは何かを見つめ直す。当時、市内中心部に住み空襲に遭った経験を持つ、建部在住の松本八千代さんにお聞きした。
*「岡山大空襲」昭和20年6月29日未明に岡山市内を襲ったアメリカ軍の戦闘機による空爆。
140機のB29戦闘機から投下された焼夷弾により、10万人の市民が焼け出され、6000人以上が負傷、1700人以上が死亡したとされる。
市民を目標にした無差別爆撃であった。
(「写真で見る岡山の戦災」参照)
冒頭写真:岡山市史 1945年8月より
参考図書:「語りつぐ記憶 伝えていく平和の思い」岡山市発行
(ご出席の方々)
松本八千代さん(89歳)昭和7年、岡山市番町に生まれ、13歳の時、家が空襲に遭う。
太田 勝正さん(87歳)鶴田、角石畝在住。様々なボランティア活動に従事。
香本 幸男さん 岡山市社会福祉協議会建部支部在職
(進行:三宅)今日は、こちらの香本さんから、建部に岡山空襲に遭われた松本八千代さんという方がおられるということをお聞きして、あれから75年が経ち、語られる方も少なくなってきている中で是非ともと、ご無理をお願いしました
(香本)「そうなんです、松本さんは以前からうちの活動(社協)に参加いただいたいてお話をよくお聞きしていました。これまでこういった本(語りつぐ記憶 伝えていく平和の思い)でも、その時の松本さんの体験が掲載されています。貴重なお話ですので、多くの人に知っていただきたいなと思いました」
(三宅)ありがとうございます。さっそくお聞きしたいのですが、当時、松本さんはどちらにお住まいでしたか
(松本)「岡山市内の市電の終点になる番町に住んでいました。そこに両親と姉と4人で暮らしていました。父親は呉服屋を営んでいました」
(三宅)当時、お幾つだったんですか
(松本)「13歳です、(岡山県)就実高等女学校の2年生でした」
(三宅)その日の状況を教えてください
(松本)「深夜ですね、二階で寝とって、お父さんが叫ぶように言うてくれて起こしてくれたんです。もう着の身着のままで、外に出たら空が真っ赤になって・・・、庭に防空壕があったんですけど、そこは逃げるなと言われてて、前から家族で話して約束してあった後楽園に向けて東に逃げたんです、姉と二人で。市電の通る広い道だったけど、柱が倒れて電線がぶら下がって、そこら中に真っ黒な人がダルマのようにころがっておるんです。焼夷弾が花火のように落ちてきて怖くなって、就実のとなりにあった憲兵隊の木の下でしゃがんどりました。それから後楽園の方に向かったんですけど、橋を渡るまでにいっぱい死んだ人がいて、川の水が湯気を立てて中に人間がようけい浮いていて、橋の下にも・・・。そうしとる間にも焼夷弾は次々に落ちてくるしで、お父さーん、お母さーん言うて声が出んまで叫んだんです・・・」
(三宅)その時、後楽園はお城が完全に焼け落ちたんですよね
(松本)「ええ、それで後楽園に行くのはやめたんです。もう声も出んし、どうしたらええじゃろうと、そしたら知った人がおって、お父さんらは弘西小学校におったよ言われて行ったら会えたんです。もう、助かったーと思いました。家に戻ったら、そりゃあきれいに何にもなかったです。防空壕の階段にしとった中に、お砂糖、米、塩、しょうゆとかがあって、お父さんが焼け残りのリヤカーを見つけてきて、それに乗せて、ヤカンとか米を炊くカマの底だけのモノとか、拾えて使える物を見つけて、それで実家の津山の方に向って歩いたんです。途中でビンに入れてたお米を通りがけの家で炊いてもらいました。親切に、いいですよ言うてくれて・・・」
(三宅)津山まで歩いたんじゃあ、大変だったでしょう
(松本)「いや、それが、汽車が来まして、ぶら下がるように乗って津山へ行けたんです。ほんとに助け船でした」
(三宅)津山ではどうされましたか
(松本)「東津山にお父さんの兄がいて里にお世話になりました。それから、母の里へ、おばあさんが産婆をしていてそこへもしばらく。それからは津山で過しました」
(三宅)岡山へは戻らなかったんですか
(松本)「ええ、戻っても、何にもないのですから。呉服をしていたので、布、シーツ、反物を津山に疎開させておって、それで服を縫って着ていました。もう、どん底の生活でした(笑)それでもお父さんが、常識だけは勉強しとけ言うて、試験を受けて美作の女学校に通わせてくれました。兄も姉も中学校、女学校を出ていたので・・・」
(香本)松本さん、今、その頃のことで思い出になることはありますか
(松本)「2年生の頃は勉強もなくて、農家の手伝いに行かされたりして、それでも後楽園は遊び場のようにしておったです。お琴を弾いたり、和歌を水に流したり、後楽園の思い出はいっぱいあります。思い出、言うんじゃないですが、不思議なことがあって、空襲の3日前に神棚に立ててた松の葉が3日続けて倒れてた、ネズミが来たわけでもないのに何かおかしいな、そのあくる日、焼けたんです」
(三宅)ああ、それは何かが知らせてくれてたんですねえ
(松本)「はい、それで今でも私は仏様、神様には必ず水を差し上げるんです。私は今だに(神様に)助けてもらっていると思っています、ホントに幸せですよ(笑)」
(香本)松本さんは、これまでも地域のための活動をされて来ましたよね
(松本)「愛育を12年やってるうちに、ほのぼの荘の奉仕で、介護、洋裁、ちぎり絵、布手芸、折り紙、したいことをさせてもらったんです(笑)
今は、こちらにおられる太田さんにお世話になって毎月、車でここまで連れて来て頂いてます」
(香本)そうですよね、太田さんもカーブミラーの拭き掃除とかボランティアをいっぱいされて来られました
(太田)「私は今、角石畝に一人で住んでおりますが、10月に免許の更新をしましてほぼ毎日こちらに通って、ほのぼの荘の手芸に連れて行ってあげたり、身体障害者の旅行に行ったり、買物を頼まれたりしてやっております。人間、持ちつ持たれつ、声掛けが大切だと考えとります」
(香本)最後にもう一度あの空襲を振り返って、松本さんから何か伝えたいこととかありますか
(松本)「そうですねえ、毎年、6月29日だけは忘れません、もう、戦争だけはやめて欲しいですね」
(香本・三宅)ありがとうございました
(記者感想)
戦争の時代を生きた人間は不思議といい顔をした年寄りが多い。
危機は人を根源に置くのかもしれない、人生で何が大切かということの。
それは自分の命であり、愛する人のいること。
今回ご出席いただいた方たちのお顔には(マスク上からも)、
”欲のなさ”がうかがえる。
愛する人に恵まれ、命あることに感謝する、それ以外は望まない、
淡々と日々を大切に生きる。
コロナの危機は人を根源に向かわせるだろうか?、