たけべ楽考   建部のこれからをワイワイ楽しく世代を超えて考えるページだよ


たけべの魅力考
  

特集「たけべで暮すを考える」
建部の地をこよなく愛し、日々豊かな人生を送る人に学ぶ 2017年8月発信

 前回に引き続きシリーズ第4弾。
 夫唱婦随、年輪を重ね輝きを増す森谷溥・千恵子御夫妻
 「砂かぶりの人生」をひた走る近藤 光子さん。
 (取材 勝部公平)

*取材させていただいた方々のお名前と略歴(敬称略)
 森谷 溥(ひろし)
   昭和16年生まれ 退職後、ますます古木の魅力にとりつかれる。建部上在住。
 森谷 千恵子(ちえこ)
   昭和19年生まれ「3色絵画」で楽しみとゆとりの時間を過ごす。
 近藤 光子(みつこ) 
   昭和25年生まれ 人生の大半を相撲の追っかけ?に夢中。中田在住。


 「第二の人生、生き生きと!」

森谷ご夫妻  建部上にお住いの森谷溥さんのご自宅に伺いました。八幡橋のすぐ近く、 法寿山ふもとの坂道を小走りにかけ上がると、 家の前の庭に所狭しと多種多様な植物が植えられていました。 これらは森谷さんが仕事の合間に全国各地から持ってきたものや、 材料を求めて山に入り込んだ時に見つけて来たものだそうです。
森谷ご夫妻  森谷さんは長く大手ゼネコンの関連会社に勤めていました。 その関係で北は青森、南は九州の佐賀まで建設用大型重機と共に飛び回られたとか。 時は列島改造計画まっしぐらの時代、工業地帯の開発、大型団地の造成、 高速道路の建設に取り組んだそうです。特に「先山」といって、山の切り崩しなど 危険な仕事を重機を巧みに扱いながら、先頭に立ってやることが求められ、今もそのことを 語る顔には誇りと自信が満ちていました。

森谷ご夫妻  そんな森谷さんは50代に古木の魅力に取りつかれ、以来、置物、花代、杖など 数多くの作品を生みだしてきました。それらのほとんどは、山に埋もれている ものを自分で掘り起こし磨き上げたものです。 50年も100年もの年輪を持つ木々に、新しい命を吹き込む姿は輝いて見えます。
 津山出身の奥様との結婚は神奈川県の鎌倉にいた時だそうで、赴任先での挙式はさぞかし奥様も 大変だった事でしょう。
 その奥様の趣味は3色の水彩絵の具しか使わないで絵を描く「3色絵画」。 主に風景、植物などコツコツと制作されておられます。

森谷ご夫妻  そのお二人に共通の趣味、それはボーリング。 もう30年以上やられており、「建部町民親睦ボウリング大会」にも 毎回、欠かさず参加されています。森谷さん自身はヘルニアを患ったり、 年とって思うように身体が動かなくなる中、コントロールに 磨きをかけているそうで、奥様も今は軽い目のボールに切り替え、 フォームに無理のない投球を心がけているそうです。 常に前向きに挑戦、高齢者の新しいモデルと言えますね。
(取材・勝部公平)
 


「掲げた看板は3つ、それと相撲!」

近藤光子さん  近藤光子さん、不思議な方です。 出会ってから20年近くなりますが、 主に「岡山弁協会」を通じてのお付き合いで、事務局をテキパキとこなされたり、 大会の企画を立ち上げる姿は感服して拝見しておりました。 それが今回、取材にお伺いして 少し迷路に入り込みました。  
近藤光子さん  まず目を引いたのが玄関に掲げられた勘亭流の書体(違ってるかも)で書かれた三本の看板。 『建部川柳社』『岡山弁協会』『こんどう写植』と記されている。ここで「?」  
 中に入ると大相撲の巨大ポスターに番付表が。ますますわからなくなりました。
 お話をお聞きして、やっと、さもありなんと納得することしきり。
 まずは「こんどう写植」、これは光子さんの本業で冊子の装丁や機関紙の制作をなさっている。
近藤光子さん  続いて「建部川柳社」。これは昭和28年頃に発足した「建部川柳会」が元で、 その設立に父上が関わっていた関係から会報「たけるべ」の製作を昭和60年から 手伝ったのが始まり。3年前からは会長を引き受けているそうです。 建部上の七社八幡宮の参道にはその「建部川柳社」の句碑が奉納されています。
近藤光子さん  三本目の「岡山弁協会」。この関りについては建部町文化センター設立当時、 館利用の企画として「岡山弁の町、建部」の話が持ち上がったことがきっかけ。 すでに「岡山弁はええもんじゃ」の出版をしていた光子さんに白羽の矢が当たり、 当時の木村町長、矢内さん、青山さんらと組織が立ち上げられたそうです。 ご存じのように岡山市と合併後もこの活動は続いていて、毎年開かれるステージでの 光子さんの台本による岡山弁劇はいつも大うけです。

近藤光子さん  そして最後に「相撲」。始まりは小学二年のとき読んだ「若乃花物語」の漫画。  当時は栃若全盛時代。若乃花派の急先鋒として突き進み、地方巡業はサインを求め ”追っかけ”に。その情熱は中学になっても収まらず、相撲雑誌にかぶりつき、その後 東京の青山学院大に行ったのも力士を見たいためで、「力士育成会」に所属して 相撲部屋に入りびたり、卒業後も就職先は相撲が観れる勤務体制のところを紹介 してもらうなど、どっぷりと相撲を謳歌してきました。 ちなみに最もひいきだった力士は北の富士関だそうです。 その日々を綴った本「砂かぶりの青春」(著作 近藤光子)は光子さんのユーモアと不思議さが 満載です。
 これからやりたいことの一つには、この「砂かぶり・・・」の続編を書きたいとのこと。 まだまだ続く「どすこい人生!」楽しみですね。
 (取材・写真 勝部公平)



    前月の「楽考」を読む





トップページへ戻る