お話しいただいた方のお名前と略歴(敬称略)
勝部 公平(こうへい)
昭和20年岩手県生まれ。日本大学卒業後、東京の企業に就職。のち、建部町にある研修施設「友愛の丘」センター長として勤務。
在職中から多くの地域活動に参加。退職後は富沢を起点に里山再生に取り組む。現在「里山建部」事務局長。当新聞の編集長でもある。
先月このページで「かいぼり調査」を中心に川を再生する
竹枝地区の活動を特集しましたが、
今月は山の再生に取り組む富沢地区「里山建部」の活動を取り上げたいと思います。
「里山建部」は富沢、夙山(あしたかやま)麓、鳥越池周辺をベースキャンプに2009年から活動をしています。
現在は「森の育て親・建部連絡協議会」を組織として運営されています。
主な活動内容は、山の雑木の伐採、下草の除去、山道の整備、キャンプ施設の造営の他、シイタケ栽培、炭焼きなども手掛けています。メンバーは会社をリタイアした
男性20名弱。月2回の作業に従事しています。
「里山建部」のもう1つの活動について、それはこの施設を一般にも開放し、自然とのふれあいや、里山の楽しさを知ってもらおうというもの。
今年も市内中心部から若い家族連れや、市外から地域のグループなどが訪れ、日頃、経験できない自然の中での遊びを満喫しました。
今回は当新聞編集長でもあり、「里山建部」の事務局を担う勝部公平に今年の里山活動を振り返りながら、これからのことや、自然をバックボーンとした
建部の可能性について考えたいと思います。 (聞き手 三宅 優)
(三宅)(里山の活動も来年で10年目を迎えるわけですが、振り返ってみていかがですか)
(勝部)「そもそもは森林の保全が目的で当初、始めたわけだけど。
それだけではつまらないし、長続きしない。そこで仲間を募る意味でも、
特に団塊の世代で会社をリタイアした人たちの居場所として活用しようと。
それと、どうせならその自然の中で子供たちが触れ合える機会を設けようと。
そして、そのための資金集めとして、シイタケ栽培や炭焼きも始めた。
そういう流れの中で、ちょっとずつ、ちょっとずつ進めて来たわけで」
(そうですね、20町歩からあるこの山林を整備するとなると半端な作業ではありませんよね。そんな中で資材倉庫を作り、ログハウスを建て、
鳥越池の整備、炭焼き窯の造作、今年は展望台もできました。ここまで続くエネルギーはどこにあるのでしょう)
「まあ結局、汗を流すことが好きだという人たちが集まっているということかな。
それとそれぞれに特技があって、それが活かせるということ。
あとは、皆でその成果を喜び合う懇親会が必ず開かれる。
奥さんたちにしても、退職した亭主に家に居られるよりは、外で元気な方が良いわけで」
(なるほど、家庭円満にも役立っている。その点では今年も懇親会というか、交流会が新しく増えましたが、それはどういう狙いですか)
「今年の新年会もそうでしたが、他所から移り住んできた人たちを招いての交流会が、年に何回かできるようになりました。”しろみて祭り”、”鎌あげ祭り”。
昔からの農業の祈願祭で、懇親を兼ねた行事です。それを、もう一度復活して、1年の節目、節目に人とのつながりを確認し共に生きていこうという主旨です。
移住者の人たちはここが故郷ではないので、地元民との触れ合う機会も少ない。それでもここで生活していくわけだから、互いに理解し合える場が必要だと思うんですよ」
(子供たちもそういったよそから来た子や、市内中心部からの子が大勢、里山祭りや里山ウォークといった体験に参加していますね)
「ええ、地元の子は少ないですね。でも、私の考えでは子どもに何かを学ばせる、それが知識だけなら学校で十分かもしれないんだけど、”知恵”、これはやはり
体験の中でしか得られないと思うんです。自分の身をもって得た知恵は活かせるんですが、人から授けられた知恵は役に立たないんです。
その中でも、この自然というのは知恵を身につける最高の場所なんです。欧米ではこういった野外で生きていく力を身につけさせる教育が盛んです。その環境が建部には
あるんです」
(先日、来日した世界的ピアニストのググニンさんも、おっしゃってましたが、この自然に囲まれた環境の中でコンサートができるホールがあるなんてヨーロッパではあり得ない、
まさにメルヘンの世界だと。でも、地元の人から言わせると、こんな田舎に不相応な建物・・・となるんですよね)
「自分の今いる所がどれほど素晴らしいか気づいていないんです。ここには仕事がないという理由だけで見放してしまう。活かせるものがいっぱいあるのに、そのすべを知らない。
これからの田舎生活は贅沢な時間の過ごし方として、人から羨まれる時代がやって来ます」
(来年からの計画にはどんなことがありますか)
「今年、薪割り機も購入して、いよいよ本格的にマキ作りをしようと考えています。2〜3年、乾かして薪ストーブ用の品質のいいマキを生産して販売しようと。
ブランドは”里山建部”にして、将来的に継続的な資金源になればと、そうすれば今後、次の世代にこの活動委ねても運営しやすいし、新たな展開も可能かと思っています」
(そうですね、親たちの残した活動が持続可能な仕組みを整えてあれば、これからリタイアしてくる世代にも受け継ぎやすいですよね)
「とは言っても、はっきりと後継者が育っているわけではないので、何とも言えないのですが。
ただ、まあ僕らとしては、団塊世代の受け皿としての役目は一応、果たせたのかなと思います。
ですから、この後は担い手がいないとしても、それはそれでしょうがないかなと。
でも、まだやれる余地はあるとは思ってるんですが、何年やれるかと言うと、そんなに無いのもわかってて、でも、やれる限りはやろうと。
少しでも夢を形にして、そのうち誰かがそのことに気づき、自分たちでもやろうというかもしれない、
そこにかすかな希望を抱いてはいるんです」
(そんな意味では、この始めたばかりの”たけべ新聞”だって同様ですよね、いつまで続けられるのか。1年でもいいじゃないかと、それが、2年やれれば尚、良いと。
そんな、手さぐりの中で少しずつ紡いでいく。きっと、この新聞だって誰かの灯りになっているかもしれない、そこに希望を見出している)
「まったく、その通りですね」(笑)