たけべ楽考   建部のこれからをワイワイ楽しく世代を超えて考えるページだよ


私たちの戦争時代
  

特集「たけべを伝えるU」      2016年8月発信



    (建部駅で出征兵士を見送る)                                                           

 〜私の娘時代〜  


   (お話しいただいた方々のお名前と略歴)

 藤原 初枝  91歳 大正14年建部町生まれる。
   福渡女学校(旧福渡高校)卒業。長く建部駅前にて化粧品店を営む。現在「たけべの里」に入所。

 近藤 津由子 97歳 大正8年中田に生まれる。
   江戸期7代続いた建部池田家のご典医近藤家に生まれる。現在、娘の光子さんと中田在住。


藤原初枝さん   「藤原 初枝」さん

 私は建部駅のそばで母と私の二人暮らしで育ちました。母はミシンで裁縫をする仕事をしてました。小学校は今も跡が残っとりましょうが市場の山の上にありました。 その頃の建部駅言うたら、そりゃあ、にぎやかでお店が何件も並んでまして、新聞屋、宿屋、料理屋、一杯屋、雑貨屋、呉服屋、カメラ屋もありました。14、15日のお祭りには 市が立ちまして、桜や富沢、田地子からもたくさん人が買い物に来ました。お正月には上の町と下の町で綱引きが行われて、大人がみんな出て「ワッショイ、ワッショイ」 綱を引くんですわ。その頃の女の子いうても遊ぶのは男子と同じ、「じんや」に「かくれんぼ」、「竹馬」ですわ。高いとこに足のせを作って、カポカポ行くんですわ。 それで屋根に腰かけるのがいいんですわ。夏は旭川で泳いでましたな。橋がまだ出来とらんかったから、渡しの舟で行って、その舟から飛び込むんですわ。それで吉田まで クロールなんて知らんから犬かきですわ。
 9歳の時の、昭和9年に室戸台風が来てものすごい大水になりました。建部の駅あたりは少し高くなっているので水は来んと言われとったんじゃけど、桜の土手が崩れたらあっという間じゃなあ、 駅の線路の上が腰まで水に浸かりました。もう、山と山の間が海のようで。家が次々、流されて行って、上に麦わらに白いシャツの男の人が立っていて、「どこまで流されるんじゃろう」と 見とりました。家よりも、牛が飲まれて行くのは可哀想でしたなあ。そのときに鉄橋も流されました。すぐあとで、兵隊さんが来て復旧工事をされましてなあ。私らは、その頃、 兵隊さんが珍しかったんで、弁当持って遠足で観に行きました。あの頃はまだ、そんなじゃったですな。

 それが何にも考えんうちに、いつの間にか、出征兵士を送るのが当たり前みてえになって。毎日、毎日、この建部駅から壮行会をして送って行ったんです。私は福渡女学校に 通わせてもらっとったんで、いつも黒い靴下で、夏でもそうでした。女子が人前で肌を見せてはいけんいうことで。それが、夏はおろか真冬にも履く靴下がないいう時代がきましたからねえ。 夜、帰ってすることは電球に靴下をかぶせて穴を縫うことですから。
 出征兵士の第1号で送られたのは、女学校の英語の先生でした。英語は敵国語で必要ないと言われるようになりましたから。ですから、英語と洋裁の時間は取り上げいうことで 、その時間は開墾に行かされるんですわ。豊楽寺の山を切り開いて、女子がですよ、木の根を掘り起こすんですよ。きつかったですよー。それでサツマイモを植えるんです。 でも、なんぼ作っても自分たちは食べられんのじゃけんなあ。全部、供出ですから。でもなあ、悪いことを思いつくのはいるもんで、そのイモをカマで皮をむいで、そのまま生で 食べるんですわ。これが甘くておいしいんですよ。そうしたら「集合!」言うて号令がかかった、とっさにイモを土に差し込んで、口を閉じたままニヤッと友だちと顔を見合わせるんです。 いやあ、つらかったんでしょうけど、今、思い出すと楽しかったですわ。 戦争が終わった次の年に結婚して、その翌年にはこどもが生まれました。

 そうですねえ、あの戦争中、何が苦しかったかって、お米が食べられないことも確かにそうでしたが、私は 運動会がなくなったのが一番、悲しかったですかねえ・・・。  


近藤津由子さん   「近藤 津由子」さん

   ええ、その頃の上ノ町(中田)は今では想像できませんけどね、お店が何件もつづいてあって、呉服屋だけで3件、大黒屋さんに醤油屋さん、雑貨屋さん、 魚屋さんもありました。前の川には高瀬舟がつぎつぎと着いて、行き来してましたからねえ。まだ、橋ができてなかったですから。
 小学校は市場の上にあった尋常小学校に通いました。当時の子どもの服装は全員が着物で、よく男の子は袖で鼻水を拭くので、そこがテカテカ光ってましたね。たぶん私がセーラー服を着た最初じゃったような気がします。下は今でも覚えてるけど 白いゴム靴でした。
 この辺はよう水が出ることが多かったんですけど、女学校の3年の時に大洪水になりました。家がぷかぷか流れていくのを見たりしました。私の家は建部池田家 ご典医で前から医者でしたからか、大勢の人が手伝いに来てくれました。その通ってた女学校いうのは、山陽高等女学校で、今でも上代(かじろ)校長先生に教わったことが私の 誇りです。こうして無地の布を大切に取っておくのも先生に教わったんです。英語で劇をしたことも楽しい思い出です。
 戦争中はいつでしたか、十聯隊(じゅうれんたい)が聯隊旗を家に置いて行って、皆が拝みに来たりしてました。どうして置いてたかはよくはわかりませんが。 最後の方には、神戸の疎開児童が近くの龍淵寺に来まして、母が世話をしに行っておったんですが、「いそがしいから、あんたも手伝いに来てん」言われまして私も行きました。 子どもの頭だけでなく体にまでシラミがついてましてね、熱湯で服をグツグツ煮て家へ帰ると私も全部脱がされて。ご飯は大きな釜で炊いていました。 おかずはイモのつるや大根で「また今日も、でいこんの炊いたやつじゃ!」と子どもが言うて。まあ、どれも今となってはなつかしいですね。 疎開に来てた人とこの頃まで連絡を取り合っていたんですよ。近藤津由子さん
 結婚してからは、勤めに出ることなんかはさせてもらえませんから、何やかやいろいろと好きなことをしてましたねえ。踊りが好きで振り付けなんかも考えました。 瀬戸大橋ができた時の「瀬戸大橋小唄」の振り付けをして、岡山中キャンペーンしたり。仲のいい友達と漫才コンビを組んでシナリオを書いたり。詩吟もずっとやってました。 でも、もう今は声も出ませんし、腕も上がらんようになって、このとおり、別名「骨皮 筋子」ですわ(笑)。この写真は昭和32年に前の中吉橋ができた時に撮ったものです。 一番若い者が古い者になって、一番古い者が若い者に変装したんです。まあ、何が本職かわからんくらい、あれやこれや楽しゅうてやっとりました。
 今はもう何もでけんですな。夢の中では走り回ったり、自由に何でもできてるんですが。では最近の句を。
 「九七 九七(クナクナ)と お呼びかからぬ 黄泉(ヨミ)の里」  

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