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僕らの戦争時代
  

特集「たけべを伝える」      2016年7月発信



    (建部駅で出征兵士を見送る)                                                           

 〜僕らの少年時代〜  


   お話しいただいた方々のお名前と略歴(敬称略 掲載順)

 古元 準一  92歳 大正12年川口生まれ。
 福渡小学校高等科から三菱重工業に入社。のち航空気象隊に徴集。戦後、役場勤務。退職後B&G所長。

 神原 英朗   83歳 昭和7年福渡生まれ。 
 岡山大学を卒業後、小学校教員。のち県教委に転勤、文化財調査に従事。以後、建部町教委としても勤務。

 行森 博   87歳 昭和4年田地子生まれ。
 川口の家畜保健所をふりだしに県庁勤務。退職後、地区長として「棒遣い保存」に勤める。

 行森 弥生  84歳 昭和7年和気町生まれ。
 夫、博氏と昭和33年に結婚後、鶴田保育園に勤務。         

                                                


古本準一   「古元 準一」さん

 僕が生まれたのは関東大震災のあった大正12年(1923年)。兄と姉の3人兄弟だった。家は百姓じゃった。 覚えているのは小学校1年生に上がる時、初めて布にゴムを貼った運動靴ができた。それでもそれを履いているのは川口でも1割ほどじゃった。あとはみんな草履じゃった。 2年くらいに後になって全体がゴムでできたゴム靴ができた、しかし僕はそれが嫌いじゃ言うて布靴を履いておった。まあ、そうとう聞かん気が強い子じゃったんじゃ。 じゃから、勉強は嫌えでも遊ぶことは川口中を遊びまくっとった。
 ランチン(ラムネの玉をぶつけ合う)パッチン(めんこ)はお手の物でボール箱いっぱい取り上げて持っとった。 パッチンは技があって、パッチンのふちを叩いても裏返らん。その1センチほど離れたところをじゃな、ふわっとはたくんじゃ。そうすりゃあ風がスッと起きてめくれるわけじゃ。 その呼吸を僕は身につけとったから、ぜってい負けんかった。
  いつじゃったか、家の柱時計を分解したことがある。どげいになっとんじゃろう思うて。ねじ回しと釘抜の2つでなあ。そしたら母親が怒ったんじゃけど、 親父が「もう、何も言うな。よう見てみい、この子は時計屋がやるようなことをやっとんでえ。それより、この子は上の学校に行ったら夢中になって戻ってこんように なるから、勉強なんかさせんで、後をついで百姓をやってくれるだけでええと思うとけ」そう言うたんじゃ。と言うのもなあ、小学校3年の時に中国の黒龍江で 日本軍がソ連とぶつかって、それで警備隊で行っとった兄が戦死したんじゃ。せえで兄貴もおらんようになったから、親父もそう言ったんじゃなあ。
 勉強もせず遊びまくっとったけど、さすがに6年生の3学期になった頃には、僕も先のことが心配になった。友だちなんか皆、金川中学とかめざして集まって勉強始めとる。 僕は親には相談できんけん、姉に「こんなことでええんじゃろうか」と聞いたら「あんた、今ごろそげえなことを心配しても遅えわ。それより、あんたが時計をバラしたのをお父さんは怒っとらんのよ、 あいつは他と違うものを持っとる言うて。せじゃけん、おめえのできることで好きなことをやりゃあええ」と言うてくれた。
   それで僕はそのまま小学校高等科に進んだんじゃけど、その2年の時に旭川の大干ばつがあった。どこもかしこも田んぼが干上がってしもうて、川近くは発動機で水を汲み上げとる。せえでもここまでは遠いから そりゃあ無理なんで、それを僕が「モーターでやりゃあええ」言うたんじゃ。そしたら父親らがそれを調達して水を入れることになった。そしたら翌年も同じことが起きて、それで今度は前もって準備して、 そのモーターのことがわかる者が番をすることになった。それを責任者の人一人と僕とでやることになった。 その人が工業学校の機械科を出た人で、来たとき教科書を見せて解説してくれたんじゃ。これがええ勉強になったなあ。  高等科を出てちょうどその頃、水島に三菱重工業が飛行機の工場を造る言う話があってなあ。僕はそれを受けたんじゃ、そしたら合格になった。 これも、あの時、教えてくれた基礎のおかげでなあ。

古本準一  三菱に入社して行かされたのは名古屋にある航空機製作所じゃった。広えところでなあ、移動するのも電動車じゃった。僕は面白えなあと思うて、さっそくそれを分解してみたんじゃ。そしたら、上司に見つかって 呼び出されて、叱られるなあと思うとったら「どうやって分解したんだ?」と聞くんじゃ。「ペンチとドライバーとスパナです」言うたら「おめえは明日から航空機設計課に行け」と言われた。 設計課いうのは、これまた面白えとこでなあ、設計道具一式渡されて、取りあえずお前の好きなようにやってみい言う指導じゃ。大らかいうか、人にやらせて伸ばすいうやり方じゃ。さすが三菱じゃなあ、せえで夢中になって やったんじゃ。2年後には指導工に抜擢されて水島に帰った。じゃけど、僕は前に徴集で甲種合格しとってなあ、それで陸軍の航空気象隊に引っ張られたんじゃ。  
 それで徹底的に気象を叩きこまれたんじゃけど、気象隊いうても、だんだん気象やこう内地では必要なくなってなあ。せえで終戦の年の6月じゃったけど広島にいた時に「乙種幹部候補生に任じる」いう命令が出て、 本隊に呼び戻されたんよ。三重県の鈴鹿にあった隊に戻ると前の班長がいて「おまえ、なんで幹部候補生なんかで戻った、これからどこへ行かされるかわからんぞ」言うんじゃ。 せえで「これを見てみい」言うて小さいガリ版の新聞を見せるんじゃ。「あのなあ、イタリアはもう降伏しとんで。ドイツも時間の問題じゃ、あとは日本がどんな負け方を するかだけじゃ。おめえも軍人で偉うなりてえわけじゃなかろう、わしもそうじゃ。わしは大学まで出させてもらって、それが何にもならなかった。じゃから、おめえもよう考えよ」 明治大学を出た人で頭が良かったんじゃなあ、深えことを知っとった。

  それからしばらくしたら終戦じゃ。あとで訪ねたらその人は戦死されとった。戦地にやらされんでも、兵を輸送する船に乗せられてなあ。じゃから、こうして 振り返ると僕は幸運じゃったいうか、ええ人に出会えたからここまで来れたんじゃなあと、つくづく、そう思う。 (写真は手前が古元さん。昭和18年頃、三菱名古屋工場勤務時代)

                                                   

                                               

    「神原 英朗」さん

神原英朗  昭和7年(1932年)「5.15事件」のあった年じゃな、僕(神原)が生まれたのは。親父が福渡郵便局の局長をしていて、今の家のここに局があった。 当時の福渡は町と言うても、下の町・中の町・上の町があるぐらいで郵便局の上は6軒の家があるだけで回り中、田んぼや畑じゃった。福渡駅ができてから、 駅通りに家が増えて、今のような町に変わってきた。それまでは、旭川の高瀬舟や筏が着くところに舟番屋があって、そこを中心に店があったんじゃな。 石引の道も津山と岡山を行き来する道でにぎやかじゃったが、鉄道ができてからは横丁ぐらいになった。今は森になってしまってるけど「友愛の丘」から 牧場のあたりまでは棚田になっていて、僕の家の田んぼもそこにあったけど、向こうの大田に行くのにはそこを通って行っとった。
 昭和9年(1934年)には室戸台風がやってきて町のほとんどが浸かってしもうた。鉄橋も流されて、前にあったお題目岩もそのとき旭川に崩落したんじゃ。 そんな、大変なことがあっても、子どもじゃけん、心配はしとらんわな、よく素潜りしてその岩を見つけにいったもんじゃ。勉強、二の次で遊びまわっとったけん。  福渡小学校は今より高台にあって高浜の「慶華園」がある所じゃった。
昭和16年(1941年)の小学校3年生の時に太平洋戦争が起きた。それからは学校の運動場や空き地を開墾してサツマイモやら植えて、軍用食料言うてイナゴや芋づる、ヨモギまで 取りに行った。授業も竹やりじゃとか手旗信号の練習、焼夷弾の消化訓練なんかやらされて勉強どころじゃあねえようになった。今でも、こうして「ピッ!ピッピッピッ」(手旗の動作) 「スグニ ゼンイン モドレ」じゃ。僕は委員長じゃけん、これを送る役じゃ。匍匐(ほふく)前進はこうじゃ、右腕を支えにズリズリ前へ進むんじゃ。左利きの子が脇にいて、これとぶつかるんで困るんじゃ。
 19年(1944年)には神戸の国民学校、翌年には西宮の学校児童が疎開してきた。福渡の妙福寺や川口の妙泉寺、中田の龍淵寺、大田の妙円寺に入ったんじゃ。 学校の講堂や空いてる教室は石引に火薬疎開作業をするための軍隊が宿舎で使った。疎開した子らも開墾したり、薪を集めたり水汲みをしたりしとった。 その間に両親が空襲に遭い死別した子もおった。 あの子らも大変じゃったんじゃ。秋の祭りに家に呼んでやったりして、村の人らも、よう面度見てあげとったなあ。
 昭和20年(1945年)になって、僕は県立津山中学に入学した。じゃけど朝一番の列車で津山に向かうと「第5小隊、亀の甲駅に集合!」と言われるんじゃ。学校へ行かんで亀の甲駅で降りるんじゃ。 駅から柵原の方へコトコト歩いて8キロほど離れた山に行くんよ。行くと大きな松の木がいっぱいあって、在郷軍人と予科練、これが飛ぼうにも飛行機がねえけん来とんじゃ。「何をするんですか?」と聞くと 松の木の皮が剥いであって、筋が付けてあるんじゃ。よく見るゴムの採取があるじゃろう、あれと同じでバケツを持って行って松ヤニを集める仕事じゃ。 その僕の受け持ちが180本。夜6時ごろまでやって「できました!」言うと在郷軍人のアアさんが来て「よし、帰ってよし」と言われるんじゃ。それが、次の日もあるんじゃ。 じゃから、僕らは朝出てくるときに父親が編んでくれた草鞋を別に2足余分に持って行くんよ。そうせにゃあ、擦り切れて帰りは裸足で帰らにゃあならん。 生徒全員が丸1カ月かけてそれをやって、それで軍人さんに「これで、どれくらい飛べるんですか?」言うて聞いたんじゃ、そしたら「2分間飛べます」言われた。 まあ、そんなことを終戦の日までやっとった。

神原英朗  考えてみりゃあ、僕らは学生いうても何にも勉強はしとらんよ。そんなことばかりさせられて。せえで終わったらそれまで教わっとったことが全部、違っとった。 天照大神(あまてらすおおみのかみ)から始まる日本国史教科書もでたらめじゃ、建国神話の都合のよいものを選んでつくっとった。情けねえけど。 せえで、事実に即した本当のことを知ろういうんで、僕は考古学の発掘調査にのめり込んでいったんじゃ。 発掘の手伝いに来たおじいさんが聞くんじゃ。「これは、いつの天皇の時代ですかのう?」せえで「その時は、まだ天皇は存在しとりません!」と答えた。 みんな日本紀元節を信じさせられてきた人間なんじゃ。
あの時は自分の国の歴史は自分たちの手で創ろう、そういう機運が盛りった時期じゃった。何日も何カ月も泊まり込んで、村の人らといっしょになって、 調査に明け暮れた。僕の青春時代じゃった。(写真は昭和45年、山陽町での発掘作業)

                                                      


行森博・弥生 「行森 博・弥生」さん(カッコ内は弥生さん)

 僕は妻よりちょっと早う生まれとります。昭和4年です。(私は昭和の7年です)
 そりゃあ、小学生いうてもほんのまだ子どもじゃけん、 特に何も思い出すこともないんですけど、おもちゃとしてはゴムボールができたことですかな。こりゃあ、もう大変な遊び道具で、投げて拾うて、また上げ合うてなあ、 父親が教員をしとりましたので、運動場でしとりましたなあ。その当時はまだ教育勅語も出とらんし、まだ戦時色はなかったですからなあ。まあ軍服を着た人がチョコチョコ 見えるようになったぐらいですわ。(そうなあ、色々思い出しますねえ。その頃の教科書は ”サイタ サイタ サクラガ サイタ”と書いてあって。校門の前には店があって、 文房具とかお菓子とか売ってました。校内にも販売があって、ノートとか買ってました)
 それが、だんだん戦争が濃くなると、鉛筆がなくなり、一人に1本とか、鉛筆を削るナイフも鉄製品で無くなるし。ノートなんかでも、とにかく「大事にせえ」が先生の 口ぐせになった。 まず一番になくなったのは消しゴムじゃったなあ。 (そう、そう、消しゴムはイカの舟のような白い甲のかけらで消しとりましたよ。カバンも今みたいなのはないから、女の子は布の袋か風呂敷で包んで背中に負うてなあ)
 小学校一年生の頃は何とも思わなかったけど、二年生、三年生になるにつれ度合いが激しゅうなってくるからなあ。一年生の頃は運動靴は買いに行きょうりましたけど、 それが「大事に履きねえよう、この商品はもう手に入らんけんなあ」と言われるようになった。 (私の頃はなあ、わら草履を持って、雪の日は下駄で、上履きはわら草履に布を巻いたのを作ってもらっておりましたよ)
 弁当は麦飯に梅干し。アルミの箱じゃったので蓋に酸で穴が開くんで、そうすると蓋が湯呑の代わりじゃけん、困ってなあ。 (「お弁当ぬくめ」いうのが教室にあって、下に炭火を入れてあって温めるんですが、そしたら漬物が匂ってきてなあ。家に帰っても子どもじゃ言うても、 稲刈りじゃあ、麦刈りじゃあ、水汲みなんかしてよう手伝いをしとったなあ。遊ぶのもなあ、みんな外で遊ぶのが当たり前じゃけんなあ、 寒いけん、おしくらまんじゅうをしたり、女の子はお手玉、人形を作って寝かせて遊ぶ”ねんねごと”なんかしとったなあ。男の子はチャンバラ、肉弾いうのをやっとったなあ)

 その頃になると学校に「奉安殿(ほうあんでん)」いうのがありましてなあ、登校すると真っ先にそこへ行って「拝め!」いうて言われるですわ。「ホウアンデン」  を知っとるいうのが僕ら同じ子ども時代を表わす言葉ですな。(紙にチャーチルやルーズベルトの絵を描いてなあ、それを踏んでから校庭に入れっていわれるんです)
 上に行っても、学徒動員がありまして、軍需工場で飛行機のドアに張り付ける日の丸を作る奉仕作業へ行きました。終戦まで1年半ずっとやっとりました。まだこの手の指には その時ケガをした傷がしっかり残っとります。(私なんか川原に飛行場を作る言うんで、土をならす仕事で動員されました。こんな川原に飛行場を作って勝てるはずがねえがなあ と思っとりましたがなあ)

行森博・弥生  戦後になっても、もう僕らの時代言うたら、戦争の続きがずっとあったんでなあ。あとは平和な社会になったという目で見られるけどそれは違うとってなあ。 僕が職が決まって明日から行くことになっても、ネクタイ1本ねえんですから、着る服もなくて。おふくろが父親の服を直してなんとか用意してくれたなあ。 洋服を親が買てくれる、そんなことは想像がつかんかったなあ。 (私の姉が着てた服を下の姉が着て、それを私が着る、お下がりが当たり前じゃなあ。”キップ”いうのがありましてなあ、「あんたのとこは靴下の切符が当たりました」とか 言われて、やっと手に入れてなあ。破れたら電球の玉にかぶせて繕うとりました。今のような捨てるいうことは考えられませんでしたなあ」

 今となって、わしが心配しとんのは、田んぼや山が荒れてこの先どうなるんか。国の農業に対する基本姿勢が間違っとるんじゃあねえか。 僕がやってきた棒遣いや獅子舞いの伝統芸能を伝えるいうのも、それは大事なものは大事じゃ言うて残していく、そのことが問われとんじゃあねえかなあ。 (私は自分の子どもらも言うんですけど「これ賞味期限過ぎとるよう」とか、じゃけど、そりゃあ自分で確かめりゃあええんでなあ。 物を粗末にするのは違うような気がしとります)(写真は昭和36年、家畜保健所にて獣医時代)

 

                                                                     



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