*成り立ち
建部祭りは江戸初期の記録にすでに建部郷内七ヶ所の神輿が参集する記述が残されており、
その起源は中世に遡るといわれている。七社八幡宮への参集神社は多自枯鴨神社(田地子)、
佐久良神社(桜)、真名井神社(市場)、天神宮(中田)、富沢神社(富沢)、宮地神社(宮地)、
天満天神宮(久具)の七社。その後の記録には品田の正八幡宮と西原の厳島神社も神幸していたことが
記されている。
祭りの隆盛のきっかけとしては、1650年代に中田に建部池田家の陣屋ができて、
それを建部郷内の村人が祭りでもてなそうとしたのが始まりと言われている。
以来、300数十年、その神幸の順番やしきたりでもめることもあったが、
その度に評議が行われ今日に続いている。
*みどころ
「村廻り」 大祭の前日に棒遣いや神楽が氏子の家を一軒ずつ浄めて廻り、
各家々の家内安全を願うもので、子どもたちにとってもワクワクとした一日となる。
「宮立ち」 各社の神輿が七社八幡宮へ出発。途中、神合いの地に指定された広場に集合、
行列を整えつつ七社八幡宮へ。次々と集結する神楽の勇壮さを道行く人が呆然と見ているのを眺めるのも楽しい。
「宮入り」 参集した神楽は七社八幡宮を先頭に順番に沿って随神門をくぐり
石段を上る。そうして社殿の広場で激しく練りまわったあと、仮屋のある坂をものすごい勢いで駆けあがる。
神楽が投げ出されるかと思うほどの乱暴さで振り回され、、その荒さが競われるだけに
各氏子の熱の入れようは半端ではない。
神楽はしばらくこの仮屋に安置される。
「棒遣い 神楽」 神事が終わると広場では棒遣いと獅子舞いが奉納される。
棒の叩き合う音が林にこだまして、そのその見事な演武に観衆の目が釘付けとなる。
二人一組、息の合った獅子の舞いは地を這い、空を飛び、片時も気を緩めることはない。
誰のカメラを持つ手も、この時は止まったまま。
「宮開き」 仮屋からでた神楽は社頭に整列する。そして合図で一斉に「オーッ!」と叫び、
神楽を高く上げる。最も高く上がった神楽が神様に喜ばれるとあって、どこも爪先立ってまで競い合う。
これを「高々(たかたか)」と呼び、この祭りの最終の見どころとなる。
「宮立ち」 これをもって祭りはお終いとなり、各神輿は来年の再会を約し、それぞれの神社へ帰っていく。
担ぎ手や神楽、棒遣いを担った人たちはこの後、一年の大行事を無事務め上げたことの感慨を仲間と分かち合うこととなる。
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参考文献
「建部町史」