*成り立ち
およそ今から350年以上前、江戸時代始めに岡山藩は他領との国境を警護するため拠点をおいた。津山藩と接する建部にも中田村に陣屋が構えられ、侍屋敷が作られた。
陣屋の領主は岡山藩家老の池田長政が命じられ、知行地も建部を中心に1万石が与えられた。
そしてその周辺には武士の生活を支えるための商人、職人らが町を形成した。前を流れる旭川には高瀬舟の泊まる「市」がつくられ、そこから米、材木、炭といった品が
運び出されて行った。
建部陣屋と新しく形成された中田新町はその後、明治になるまで建部郷の中心として栄えた。
明治に入るとそれまであった陣屋、侍屋敷は取り除かれて、商家が残るのみとなったが、鉄道で運ばれた石炭を高瀬舟で運ぶなど交通の要衝として町は続いた。
昭和になって河川工事で川沿いの家が立ち退き、しだいにかつての賑わいを失っていった。現在、残るいくつかの白壁の建物は明治に入ってから建てられている。
*舟着場跡
国道53号線から中吉橋を渡り切るとそこからが中田新町になる。桜上水の土手を右に少し行くと、川沿いのこんもりとした竹林の隙間に川舟が停留している。
夏の暑い昼間に訪れてもここだけは涼やかに人の心を誘う。ここが大手門からご御蔵米を積み出す高瀬舟の舟着場「大手の市」だろうか。上手を見ると岸が湾曲して突き出ている、「波止」と呼ばれる
石を積み上げて造られた防波堤だ。こういった市は他にもいくつも周辺にあったと言われている。
*新町跡、上の町
上の町に入る。人一人歩いていないひっそりとした道路。西側に古い面影の家がいくつか寄り添って並ぶ。大きな家で間口が10間(18.2m)。
ほとんどが明治期に建て替えられたとは言え、江戸期の姿を継承していると思われる。
壮大な大瓦の下はなまこ壁が囲い、正面に向いて各家ごとに工夫を凝らしたムシコ窓が造作されている。
家の一階、庇の下には持送り板と言う支えが、細やかな細工を施されて付いている。
玄関を挟んで正面両脇には格子、二段格子、出格子、どれも繊細な意匠。
醤油屋さんだったと聞く家の門には今でも建部池田屋敷の門がそのまま移築され残っている。
飾りの金具が女性の乳に似ていることから「チチ門」と呼ばれてきた。
元、建部池田家、御典医だった家の前には外された鬼瓦が置かれている。
以前、お邪魔した折に入口に保存されていた御籠を見せて頂いた。
二階側面の屋根下には「懸魚(げぎょ)」と呼ばれる飾りがついていて、漆喰の塗り替えの時に家主さんが「邪魔だから取りはらって」と言ったところ、職人さんが
「それだけは私もできない」と言って今に残ったんですよと冗談交じりに話してくれた。
*建部池田跡
建部池田の陣屋は明治に完全に撤去され、今は痕跡もほとんど見当たらない。わずかに雇用促進住宅の先にお濠の跡とおぼしき石組が見られるのみ。
しかし建部池田家とその時代の名残りはいくつか見られる。下ノ町にある観音堂は江戸中期に建立。池田藩の家臣が関ヶ原の戦で亡くなった先祖を
弔うために寄進したと言われている。そばには同時期につくられた地蔵様が祀られている。
また山間の天神宮には中田新町の塩屋、松崎十兵衛が奉納した
石燈籠が二基建っている。
そして、建部池田家の墓は富沢地区の阿光山頂上にあり、今も建部の行く末を見守っている。
何げなく通り過ぎていた町並みにも、そこ生きた人の歴史がある。300年前の人の生活を想うとき、そこに丁寧に暮らしていた人々の姿が浮かぶ。 何でもが手に入り、どんな情報も得られる現代、我々が時間を刻むように大切な生き方をしているか、つい考えてしまいました。
建部駅から中田新町へ徒歩で
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<取材協力>
神原英朗さん 近藤津由子さん
参考文献
「建部町史」