■「新たけべの彩時季」
建部中学に子どもを通わせる「たけべ福渡しプロジェクト」の江田さんから「1年生が防災研修をやるのですが、取材に来られますか」とのお誘い。
建部中学による防災研修が行われることは昨年、建部町公民館から聞いていて、ここ数年のコロナ禍で学校主体の防災キャンプが中止となっていたこともあり興味深く捉えていた。
即、「行きます」と返答。
前日には研修担当の片山教諭(生徒指導担当)から直接、参加依頼の電話を頂き、今回の取組への並々ならぬ熱意が伝わった。
5月16日(火)13時、あらかじめ「oniビジョン」松本記者と待ち合わせをし校内に待機、この日の気温は摂氏30度の予報、帽子着用、水必携である。
開始前に松本記者が片山先生にインタビュー、記者も同時取材。
(松本記者)「今回の1年生を対象とした防災研修のねらいは何ですか」
(片山先生)「今年初めての試みなのですが、地域のジュニアリーダーを育てることと、建部にこだわる意味もあります。
以前は閑谷学校など他地区に出かけての研修だったのですが、自分の地でも学ぶことがあるのではと思いました。そこで53号線は大雨による浸水もあり、南に通勤している父兄も多いので、これから出水期の前に防災を学ぶのが良いのではと考えました。
併せて地域の良い所、名所旧跡を訪ねることで幅広く学べるようにウォークラリーでゲーム感を入れ、楽しい授業にしたいとも思いました」
給食を終えた1年生25名が体育館横の日陰に集合。まずは出発前の集合写真。
この日のカキュラム前半は1時半から「ウォークラリー」北コース3班、南コース3班で、学校周辺の神社やお寺、八幡温泉、しあわせ橋と言った箇所を回りながら、同時に防災上の危険な場所や建造物を見つける。
これらをデジカメに収め、ウォークラリーでもらうハンコと合わせてポイントを競う仕組み。
開始に際して当研修を立案された講師の森田 靖さんからアドバイス。
「各班にデジカメを渡しますから、そこで自分たちが見つけたものを写真に撮って来てください、ポイントになります。その時は、”防災”と言うメガネを掛けて町歩きをすることが大事だからね」
13時半、生徒は6班に分かれそれぞれのポイントに向かう。記者ら(松本記者)は、水害記念塔のある宮地神社から中田新町、神力稲荷、成就寺を回るコースに同行、帰校予定はは14時50分~。
日差しは目を射るほどに強い、まさに炎天下、三脚付きのカメラを担ぎ、生徒たちの先へ先へと構える松本記者の姿にプロと素人記者の差が歴然となる(笑)
一行は最初の目的地、宮地神社に到着。区長さんら数名がお待ちかね。鳥居をくぐったすぐ右に建つ石塔の前で区長さんが説明。
「これが昭和9年に水に浸かったことを記した水害記念塔、ここにその時の水位が刻まれておる。私の頭の上くらいじゃから約1メートル70センチじゃ」
(生徒)「ヒェー⁉」
「裏にそのことが書いてある、昭和9年9月21日出水被害で20余町歩が浸かったと。古い話じゃけん、おじさんらも生まれとらん時のことで、それ以上はようわからん」
生徒たちは確かにここに来たことを証明するため「僕らの写真を撮ってください」とお願いする。(2世代交流が実現)
次なるミッションは「中田新町」。
「少し遅れてるので、ギアを上げます」リーダーの指示に記者も回転数をアップ。日差しは衰えを知らず、生徒たちは持参の水筒を何度も口にして水分補給。
道ながら見つけた崩れそうな古屋や石を積み上げて出来た宝塔を撮影。
「これって、倒れてくると怖いですよね」
台橋を渡り中田新町、入口に「妙見様」。
「撮っておいた方がいいですか?」と聞かれ
「古くから地域の人が大事にしているから撮っておいた方がいいんじゃないかな」(記者)
町屋筋、奥の1軒でこちらを伺うご夫婦、以前取材でお世話になった「太田秀世家具工房」の太田ご夫妻だ。醬油屋だった古い商家を以前の姿を活かしながら改築され住まわれている。
(太田秀世さん)「ここは江戸時代に岡山藩が治めていて、川の向こうは津山藩が治めていました。それで岡山藩はここに陣屋を作り警備にあたりました。
その時、武士だけでなく、商人や大工、職人も住まわせました。でも明治維新で武家がいなくなったので、侍屋敷と町人の境に建っていた大手門がここに移築されました」
太田さんの家の門が江戸時代から残っていると聞き、生徒の反応は目が宙をさまよい、遠い時代にスリップしているかのよう。
中田新町を出たのは2時30を過ぎた頃、急ぎ足ながらも危険個所はないかと度々、立ち止まる。
水路沿いを行く。建部は10キロ以上の用水路が引かれていて、水門のある場所は人が出入りできるように開口が広くなっている。生徒たちのカメラに収まる。
神力稲荷の前で気をもみながら待っていてくれたのは、連合町内会長の垣本さん。
「遅いなと心配しておった、今から成就寺へ行くには時間がないから、このまま戻りなさい」
急ぎスタンプをもらって出立、まっすぐ学校に向かうことに。鳥居の奥にはひと際、高くそびえる大杉。
無事到着、しっかりと冷水でのどを潤した後は、後半防災カリキュラムへ。
午後3時半、体育館1階の武道館には地域の区長さんやボランティア30名ほどが集結、これから始まる「避難所疑似体験」にどんなことをするんだろう、うまくできるかしらと興味半分、心配半分(笑)
國富校長先生からの説明。
「本日は地域の皆さまにご参加いただきありがとうございます。近年の異常気象を考えると子どもたちが防災を学ぶことは大変、重要なことと考えています。
今日は皆さまにランダムの役当てで自身が引き当てたカード役になりきっていただき、実際の避難者になっていただきます。子どもたちが、そのカードの記入に沿って避難場所へと誘導します」
この日の講師は、真備水害で水に浸かった写真の洗浄ボランティアを続けられている森田 靖さんの他、長く避難者のサポートに携わって来た「ホット岡山」の服部育代さんも参加。しっかりとした人選に計画の入念さが伺える。
参加者一人一人に役当てのプラカードが手渡される。それを手にした人たちの一様な戸惑い。
田地子区長の本田さんが引当てた役は「89歳女性 家族とはぐれている 秋田犬を連れている」
シルバーの会の市川さんの役は「78歳 女性 歩行困難 高血圧の薬を無くしている」
他にも「32歳女性 生後10日の乳児を抱え母乳で育てている 夜泣きがひどい」
「言葉が不自由 手話での会話が必要な女性」「引きこもりの30代男性」「外国国籍 日本語が通じない男性」と多岐に渡り、
それ以外にも家族構成や家の被害状況などの個別情報が盛り込まれている。
誰もがしばらく、自分ではない人格になりきるためのイメージトレーニングに入る。
「それでは、上の避難所の受付へとお進みください」いよいよ開始。
ほぼ全員が歩いて2階階段へと移動、だが歩行困難役の市川さんはさっそく難問にぶつかる。
「ワシはここから這って行くんじゃろうか、だれか車イスで連れてってもらえるじゃろうか」
2階受付、生徒らが検温器で一人づつの検温(今回は全員熱ナシ)。それを終えて記入カードの作成。
「氏名」「年齢」「町内会名」「自宅の被害状況」「滞在する場所(避難所・テント・車内・それ以外)」「ペットの状況(同伴希望・置き去り・行方不明」「車の車種・ナンバー」
参加者は首に掛けたカードの情報に即してそれらを記入。戸惑いながらも懸命に書き入れる指に力が入る。
「ワシは、つい自分のことを書いておったわ」いつの間にか他人事ではなくなっていた人も(笑)
「はい、カードをお見せいただけますか」生徒たちが一人一人の避難者のカードを確認しながら、今、どこへ避難誘導すべきかを判断をしていく。
中には「子ども連れ」と「乳児を抱える人」を同じ場所に案内していいのだろうか、「外国の人」と「言葉が不自由な人」は?
そんな時、「???・・・少々お待ちください、係りの者と相談します」何人かが集まり意見を出し合う。
その間、講師も先生も「それは、あそこに」とか「それはこのように」と言った
アドバイスは一切しない。判断するのは自分たちであって、自分らが結論を出すしかない。
「わかりましたので、こちらにどうぞ」さっきまでとは変わり、自信を持って避難者を目的の場所へ案内。
1階から2階へのスロープ通路が完備されているが、体育館入口扉の段差は15cm以上で超えられなくて立ち往生。避難者役の市川さんも車イスの前輪が上げられるたびに「こりゃあ、怖いわ」。
これには、さすがに先生が手を貸してどうにか入場。今回、奇しくも現実の課題が浮き彫りに。
避難者の状況に合わせた避難場所への誘導、その避難先でも「お乳をあげるときは、ここをお使いください」「ベッドがあった方がいいですね、今お持ちします」ときめ細やかな
サポート。
ホワイトボードの前では「ご家族がいなくて探されている方は、こちらに書いてくださーい」
自分の役に書かれた情報を読み返した人が「あっ、それは私だ!」とボードに向かう。
避難者になった人にも発見がある。
「メガネがなかったので記入に苦労した、実際の避難では持つ暇は無いじゃろうから、受付にあると助かる」
「このテントの中は結構蒸すな、これが夏場だったら中より外にベッドがあった方がいい」
「建部でも外国の人が増えている、日本語がわからないとイザと言う時、困るじゃろうなあ」
「うちも犬を飼っているけど、いっしょに連れておれる場所があるとええわ」
さまざまな人や家族が想定された中で、生徒たちが自分で答えを見つけて行く、その力を身に付けることこそがこの研修の目的だと分る。
「何か、お困りのことがありますか?」神妙な顔でメモをしていた記者に、笑いながら問いかけてきた女子生徒。
「オッ、○○ちゃん!」
いつの間に大きくなったのだろう、保育園の夏祭りで出会った園児。
「そうか、おじさんも、○○ちゃんに助けてもらえるようになったのか、ありがとう・・・な」
終了後の振り返り、生徒たちへ森田さんから。
「まず、中学1年生でこれだけのことが出来たのは素晴らしいことだと思いました。そして学ぶことも多かったと思います。
カードの記入の仕方、誘導先の決め方、実際、車イスが入口で段差があって入れなかったことも起きました。
車イスのハンドリングを学んだ人が必要だと分ったと思います」
服部 育代さんに感想を聞く。
「とにかく面白かった。こちらが放っておいても、子どもたちがそれぞれの状況を一生懸命、想像して対応していた。
地域の人との交流もできて、申し分なかったです」
避難所運営の後には、この日、生徒たちの一番のお楽しみの「夕食づくり」が。先生からメニューと電卓、お金、マイ袋を渡されて、急ぎマルナカへ。
(記者感想)
中学1年生が、どんな防災を学ぶのだろう? 興味が沸いた一方、よくあるビデオ視聴や講演を聴くだけのものなのか不安もあった。
地元の大人たちが勢ぞろいしてたのにも驚いたが、その人たちが避難者になる、それも男性が女性に、80代が30代に、はては外国人に言葉の不自由な人にと、
今の自分を捨て去り、他人の気持ちになる。その人たちを生徒たちが一人一人、避難所に受け入れる。
それを聞いて「何と面白いプログラム!」と一気に高揚。
実際にその現場はワクワクの連続、目の前で生徒たちが困惑したかと思うと、次には自信を得た行動に移る、まるで早送りの動画のように生徒たちの成長が観てとれる。
こんな為になる授業なら、日本国中の学校でやって欲しい。仮に、これからそのようなことが起きた時、この経験を持つのとそうでないのとは、大きな差が出来ると思う。
今回の研修は生徒も大人も共に初体験いい刺激になった。この研修を企画実行された講師の方々、学校の先生方にお礼を申します。
(レポート・三宅 優 )
13日(土)は雨模様、でも、そんなこと気にしちゃおれんのが”たけべ魂”。この日は「カヌー大会」と「SAKU美SAKU楽」列車歓迎のダブルイベントが待っている。
午前11時、津山線福渡駅1番ホームに勢ぞろいしたのは赤いバンダナ、黒いTシャツ、手には色とりどりのオカリナ、そう、ご存じ建部の女性演奏グループ「オカリナ野の花」の面々だ。11時38分入線のJR「SAKU美SAKU楽」列車を音楽で迎える熱いおもてなし。
練習の音色が駅舎に響き始めると歓迎旗を手にしたボランティアが続々と、その中に年輩の外国人旅行者の姿・・・と思いきや、そこへピッツェリア「マル屋」のマルコ、マリコ夫妻が登場。
「あの、イタリアのマルコの両親です」
おお、そうとなれば握手・・・「イイイ、痛タタ・・・」
手のひらが潰れそうなほどの握力、その力強さはまさに「グランデピザ」(直径60cm)を宙高く投げ上げて、軽々片手でキャッチするマルコのパーパならでは(笑)
この日はなんと偶然、ご両親と広島観光に行くため駅にやって来たとか、その後、帰国の途に就くとの事で、ぜひとも「たけべ新聞」で紹介をしたいとお願いした。
編集部よりコメント:「お父さんのアルドさん、お母さんのニコレッタさん、ここ日本で思い出いっぱい出来ましたか、また来てくださいね、お会いするのを楽しみにしています💛」
11時38分、サクサク列車がやって来る、演奏されるのは「瀬戸の花嫁」、ホームにあふれるほどの歓迎に乗客は只々、驚くやら腰が引ける?(笑)やら。
「ふるさと」の曲に送られて「サクサク列車」は無事、次の駅へと向かいました。
一方、こちらは旭川河川敷、は恒例「カヌー全国大会」の開催、数百人もの人が日本各地からやって来た。
ここで「そうとなりゃあ、わしらも何かして応援せにゃあ、おえんじゃろうが」地元の年寄り男たちが奮い立つ。
チーム名は「我ら、ここ(福渡)で笑って暮らそうよ」と「福笑組(ふくしょうぐみ)」に。
さて何をするか
?
「よっしゃ、若い選手が喜ぶのはハイカラじゃ、タコスを出そう!」
生地からのトルティーリャ作りに挑戦。
「ムム、マル屋のマルコなら空中で回して簡単に伸ばすのだろうが・・・」
それでも苦戦しながら徐々に技術アップ、どうにか形に。
店番で競技の応援まで気が回らない、でもアナウンスで「ゼッケン〇〇番、岡山県カヌー協会所属・・・」と聞こえると「オッ!」とスマホを手に岸辺へ急行。
雨は本降りになり、応援も水濡れでの声援。競技は翌日もある、いい結果が出ることを願う。
用意したタコスはすべて完売。70枚ものトルティーリャを伸ばした男たちの顔も満足げ。
「えっもう終わっちゃったの?」食べ逃した皆さん、また来年、それまでに腕を磨いておきます(笑)
(レポート・三宅 優 )
そもそものきっかけは、妻から言われた「お願いだから、作品は残さないで」の一言。
確かに画家(彫刻家なども)が多くの作品を作っても、逝った後、困るのはそれを引き継いだ家族の者。捨てるに捨てられず、かと言って・・・。
そこでふと思った、「じゃあ、その辺にある石ころを拾って絵を描いてやろう」
石の可能性を知らしめるには分かりやすいイメージが良い。自分が感動した絵をテーマにすることにした。
しかし使うのはあくまでも着色も加工もしない普通の石、それだと自然に戻せる、ただそれで描けるのか?誰もが首をひねるだろう。
でもそれについては全く心配がない、なぜなら石が音楽の音符のように感じれるし、元より名画を再現することに主眼はなく、それを題材にして石の美しさを奏でることが目的だから。
互いに異なる石を並べ集めて一つの小節ができる、それを2つ3つとつなげて一つのメロディが生まれ、最終的に石の交響楽となる。
ダヴィンチの「最後な晩餐」に始まり今回7回目となる「ゴーギャン展」、昨年の暮れから取り掛かり、終えたのは展覧会(4月29日)の1週間前。
今回も1日限りの開催、さて石はどのように鳴り響く?
「説教の後の幻影」(1888年)
見えるもの(民族衣装の女たち)と見えないもの(格闘する天使と神)、形(人物、木)と色面(背景)、現実と非現実を一つの画面で構成する、
ゴーギャンの目指すところの総合主義を確立した作品。
白い石(女の衣装)のリズムが作れず、何度も何度もやり直すことになって途中で止まってしまった作品。
鑑賞者の感想「赤い地に白の石が見えるけど、何が描いているかさっぱり??(笑)」
「光輪のある自画像」(1889年)
40点ほどあるゴーギャン自画像の1点、後の象徴主義につながる作品。
制作中に子どもたちの観客がやって来て「アッ見て、ここに男の人の顔がある」と言って感心してくれたので、これは成功だと思った(笑)
「かぐわしき大地」(1891年)
大原美術館にある名作、荒いジュートに描かれている。
黄色いパネルを用意した途端、手が一気に動き出し、次々と石を見つけて行けた。
鑑賞者の感想「どこかで見たような気がするけど、あっ、大原美術館、そうそう30年も40年も昔に観た覚えが」
「タヒチの女たち」(1891年)
1回目のタヒチ滞在の作品、トウモロコシの皮を編んでいる女と友だち。
右の女に置かれた石の量と、左の女の髪とスカートの花柄に置く石の量に手こずる。
鑑賞者の感想「これはよくわかるわ、女の人が二人座ってるのが」
「ネヴァモア(横たわるタヒチの女)」(1897年)
パリに居られず再び戻ったタヒチ、すでに女は去り、病に侵されて貧困の生活を余儀なくされる。
茶褐色の女の肌、光と影、古い襖(ふすま)の模様もそのままに、ただ石を置いていった。
鑑賞者の感想「こりゃあ、こっちから見りゃあええんですかいのう」(反対に立って)
「赤い花と乳房」(1899年)
メトロポリタン美術館にあるゴーギャンのもっとも知られた作品。
青いパネルをベースに肌に置く石とスカートに置く石のバランスに最後まで迷う。
移動する度に石がずれて、いつの間にか女の表情が変わってしまった😢
「我々はどこから来た、我々は何者か、我々はどこへ行く」(1897年)
題名から遺言とも言われる大作、ボストン美術館で観たのは30年も前。
最も石がリズミカルに運ぶと思える3つの部分を選び、古い襖の上に描く。つながりを考えず1枚を1点として作ったが、並べてみると一つの作となっていたので満足。
<追記>
1冊の本を開く。「美術の物語」世界的ベストセラーとなった美術の歴史書。
紀元前のはるか昔、アルタミラの洞窟画から現代まで人の手で作られてきた美術を語る。
その中で600ページ中、近代までに550ページを費やし、残り50ページからゴッホ、ゴーギャンが取り上げられる。それほどに美術の歴史は壮大で、かつ近代、近代後は未だ定まらない薄い歴史とも言える。
だとしても、美術はその時代に、たまたま居合わせた一人の天才たちの連なりだと言うこと。一人の変革する芸術家がいなければ、そこに歴史は生まれない。
鑑賞に来てくれた天才少年の感想「僕もこの本を読みたいと思います、昔のことをもっと知りたいから」
(レポート・三宅 優 )