■「新たけべの彩時季」
新年、最初の「たけべ人」紹介。
世界中を震撼してやまないコロナ、日本では平静さを取り戻してきた感があるがこの先まだ予断を許さない。
この災禍において国民の多くが学んだことは、医療を受けれることのありがたさ。
今回の「たけべ人」は建部町及び久米南町地域1万人をカバーする唯一の病院である「福渡病院」の院長として昨年4月に就任された建部町出身、堀内 武志(たけし)先生にお話をお聞きしました。
*(注)「福渡病院」正式名称は「岡山市久米南町組合立国民健康保険福渡病院」
(聞き手・勝部 公平 写真・三宅 優)
堀内 武志(たけし)
昭和41年、生まれ(55歳)
福渡小学校、建部中学校から岡山一宮高校を経て自治医科大学医学部に入学。
平成4年、大学卒業後、県内各地の病院に勤務。
令和3年4月、福渡病院 院長に就任。
総合内科専門医として内科全般とプライマリケアの診療を行っているが、特に専門は呼吸器内科。
妻と子どもの5人家族、趣味は釣り、読書、寺社巡りなど。岡山市在住。
(聞き手 勝部 公平) 「コロナも少し一段落して、やっとお話をお聞きしても良いかなと考えまして、今日のご無理をお願いしました。さっそくですが、先生はこの建部のご出身ということですがどちらですか」
(堀内)「ここ福渡です、小学校は福渡小で、中学は建部中学でした」
「じゃあ、いろいろと思い出もおありでしょう、その頃の福渡はどうでしたか」
「いろんなところに自然が残っていましたね、田んぼもいっぱいありました。川にもよく入りました。モジを仕掛けたりヤスで突いたり、プールがなかったので旭川が泳ぐ場所でした。
八幡橋の下では年1回、ハエ釣り大会がありまして、日本中のハエ釣り師が集まったりしていました。私も釣りが一番好きでした。山にもよく入りました、自転車で駆け回った思い出があります」
「学校での思い出とかありますか」
「中学1年の時、文化祭がありまして、建部町の標高地図を立体的にして作ったことがあります。建部町の歴史について日野先生に教わったこともあります。
それとあまり知られていませんが建部には古墳がいくつもあって、グループでそれを探して見て回ったりしました。中学校時代は山本教公先生が3年間連続で担任で、とてもお世話になりました」
「クラブ活動とかも盛んでしたか」
「そうですね、小学校はソフトボール少年団で中学は卓球部、高校はハンドボールをしていました。勉強もしていましたが、短歌と俳句、詩を書いて投稿したりもしました。
高校では、建部町の夏祭りのことを小説に書いて賞をもらったこともありました」
「医者を目指されたのはいつ頃ですか」
「一宮高校の3年の時ですね、母親が看護師をしていたこともあって、自然とそうなっていきました」
「進まれたのはは自治医科大学医学部だそうですが、どのような大学でしたか」
「自治医科大学は、”医療の谷間に灯をともす”ために、47都道府県が設立した栃木県にある全寮制の大学です。へき地医療、医師不足の地域を支える医師を育てることが建学の趣旨です。
毎年、各都道府県で合格してから2、3名が入学し、学費と生活費が免除されるかわりに9年間を県職員として働くことになります。
僕の場合、4年間を岡山赤十字病院で、5年をへき地中核病院や兼務で診療所で勤務しました
自治医科大学は、地域医療のスペシャリストとして地域に残る人が多いです。有名な方では、新型コロナウィルス政策分科会の尾身会長は第1期生です。
岡山済生会病院の塩出純二先生や、県内では湯原温泉病院、鏡野町国保病院、美作市立大原病院の院長も自治医大卒業です」
「そりゃあ、すごい大学ですね。先生は呼吸器がご専門と言うことですが」
「実際には内科一般と、プライマリケアが中心で、なんでも診るといった感じです。呼吸器内科の専門医ですけど」
「この30年ほどの間に随分と医療のあり方が変わりましたね、今は地域包括ケアシステムが盛んに言われてますが」
「平成2年のゴールドプランから平成12年介護保険制度、そして平成26年の地域包括ケアシステムへと高齢化が進むに連れて変わってきて、それについて行けない病院や医療施設も出てきました。
福渡病院も令和元年9月に国がすすめる地域医療構想の再検証対象になったわけで、そのことで病院のあり方と存在意義を再確認できました」
「福渡病院は旧建部町の時代から久米南町と併せて、この地域、唯一の病院として機能してきたわけですが」
「今は国の方針である地域包括ケアシステムのこの地域における中心拠点として福渡病院があるべきだと考えています。
そのためには久米南町と岡山市の自治体を超えた取り組みが必要で、地域の医療機関や旭水荘などの介護施設などの地域全体との連携が大変重要です」
「そうですね、そうやって地域を上げた支え合いが求められている時だと思います」
「そのことで言えば、まず地域を愛する心を持つことが大事かと思います。住んでいる人がこの建部はいい所だよと自慢するようになれば繋がりは強くなりますし、子どもたちにも
その良さを伝えていけば、一旦、他所に出たとしても必ず帰ってきます。
昔、イギリスのチェスタトンと言う人が
”ローマ帝国が栄えたのはローマが偉大だからではない、ローマの人たちがローマをすばらしいと思っていたからだ”と言いました。
まさにそれだと思います、建部の人がここをすばらしいと思うことで、ここは盛り上がっていくと思います」
「私も岩手が故郷で仕事でここに来て、そういった目で見るといい所がいっぱい見つかるんですよね」
「建部は古くからの歴史を持つ地域です、今もそれを伝える所がたくさん残っています。多自枯神社、志呂神社、和田神社などはとても由緒あるお社(やしろ)です。
豊楽寺は辺り一帯を治めるほど栄えていましたし、鶴田、三明寺、大田の山にはお城がありました。
昔、市場には宮大工が多く住んでいて、旭川を行き来する高瀬舟を造っていましたし、川口や福渡、中田には渡し舟がありました。周辺の山ではマツタケがいっぱい採れて、マツタケ列車が走っていた、そんなことを知っている人が今どれくらいいるでしょうか、たぶん学校でも教えていないのでは」
「学校では標準的な教育が優先して、中々そういった時間も取れないのでしょう」
「学校の写生大会や遠足などを通じて地域の良いところを身に付けさせたり、お父さん、お母さん、おじいさん、おばあさんから子どもの頃の話を聞くのも良いと思います。
それと、この建部町時代に編纂した建部町史はとてもよく出来ています、おそらく町史で3巻も作られているのは他にないのでは、大変、貴重な資料だと思います。私の愛読書です。
私もこういったことを話せる機会があれば、できる限り出向いて伝えたいです」
「最後にいくつかご質問を、まず、これからの福渡病院についてのお考えをお聞かせください」
「地域医療を基本に県内の病院等とも連携し、専門外来を増やしていきたい。診えるを増やすことで人も段々と増えていくし、地域のニーズがあれば医者も増える。それと地域の介護施設や行政とも協力し地域包括ケアシステムの中心拠点として、”福渡病院に相談したら何とかなる”と言われる病院を目指したいです。問題は医師不足で、地域の自治会等からも医師確保のための働きかけをして頂けないかと願っています」
「今のコロナについての対応については」
「まずワクチン接種の第3回目を当病院でも行いますので、その際はよろしくお願いします。それと風評はあまり気にせず、恐れすぎないようにしてください、正しく行動することが大事です」
「ご自分の健康管理はどのようにしてますか」
「妻と歩いていて、月に30km、ウォーキング、ジョギングをしています。しかし、福渡病院赴任後は休みがなく、睡眠時間を削っている状況で健康管理の難しさを感じています。
一般的に、健康に長生きするためには、歩くこととストレッチが大切と言われています。ストレッチは大切ですが、あまり知られていません。筋肉のしなやかさがあると、怪我をしにくくなり、これを保つことが老後を快適に生きていけるとも言われています」
「これからの地域を担う若い人へ、一言」
「 建中の石碑にある”自ら学ぶ” これは今も私の座右の名です。そして人の責任にしない、自分で努力する、そのことが大切だと思います」
「どうも、ありがとうございました」
(対談を終えて)
今回、先生のお話しをお聞きして、今さらに地域医療の大切さを痛感いたしました。
国の政策等では地方自治しか論じられていない中、地方自治医療の在り方が、これからの地域における少子高齢化社会の根幹になって来ると感じられました。
建部ご出身の先生は、建部の在り方についても述べられ、長い人の営みから生まれた文化や歴史を大事にし、今、住んでいる人が、地域に誇りを持てるような
継承活動が重要と話されました。私事ですが、20数年前にバングラディシュに行った折り、ダッカ空港の薄暗い壁に「マイカントリー、マイプライド!」と
書かれていたのを思い出しました。
「私の国が、私の誇り!」経済的豊かさだけを追い求めていては、背骨のない根無し草になってしまう、そんな思いが脳裏に浮かんでいます。
(勝部 公平)
福渡病院ホームページ←こちら
今朝の我家、外気温はマイナス1.7度。「え~、何でこんな寒い時間から歩くのかなあ」愚痴をこぼしながら身支度する。
新年最初の「建部町歩こう会」、第414回目となる今回は、
恒例「建部六社詣で」
「そんな早くないよ、年寄りはもうとっくに起きてる時間だよ」妻の言葉通り、午前8時30分、集合場所の八幡温泉駐車場には20名からの参加者がスタンバイ。
さっそく新年初のラジオ体操でストレッチ。「ポキ、ポキ、痛てて・・・」完全に体が固まっている。記者より年上の参加者は慣れた動きで 「いち、に、さん、し」
会長の本田義章さんから「新年最初、普段の生活ができるように今年も歩いていきましょう」と挨拶。まずは、近くの七社八幡宮から。
境内には焚火の後が残る。昨日、建部上の「とんど焼き」があったそうで、オニビジョンさんも来たらしい。(このところ、たけべ新聞は後れを取っている?)
そこから山沿いに富沢へ。道沿いに最近、目につくのが落としたマスク。その人は顔にマスクがないのも気付かず帰宅したのだろうか?
富沢神社、階段がほとんどないのでお参りし易いコース。本殿上の鬼瓦には”鬼”ならぬ”恵比寿様”がニッコリお出迎え。ついつい、お賽銭を奮発。
そばに取り付けられた黒板には「金一封者」の名前がチョークでズラリ、見覚えのある名前もしっかりと
「ここは恵比寿様がおられるだけにお金が集まるわ」と勝手に納得。
ここまで来ると、かじかんだ手足も温もってきて、お日様も顔を出して気分も上場、心もなごんで会話も増えてくる。
「今年の正月は子どもらが2年ぶりに帰って来たのよー」
「まあ、そう、良かったじゃない、ええ正月じゃったなあ」
いつしか「中田天神宮」の鳥居が見えてくる、そこから長い境内への道。
「私しゃあ、ここで待っておくわ、代わりに行って来て、せえでもあんたは元気で若いなあー」
「そげんおだてても、なんにも出んよー(笑)」
今年の笑い初めが石階段に響き渡る。
そこから建部駅前にある「福祉交流プラザ」で一休憩、ちょうど今日からこの27日まで
「ふれあい展示会」を開催。
手作り小物、手芸品、焼物や写真やスケッチ画の力作が並ぶ。どれも長い時間を感じさせて作ることの喜びが伝わって来る。
プラザを後にしたのは11時、「今日は早いなあ」と誰もが思ったのだが、前半が楽勝は、たいがい後半にガクッと来るパターン多し、行きはよいよい帰りはコワイ!
西原、鹿島神社のまっ
すぐに伸びた参道、「うむ、けっこう長いなあ」
一人、二人と「私、ここで待~つわ」 ”あみん”?が続出(笑)。
市場「眞名井神社」町中の平坦な道を行く。境内には可愛らしく剪定された椿の木、今ちょうど黄色い蕾をつけている。
そこから再び、民家を抜け、ゆっくり、ゆっくり、「あともう一つよね」と誰かが念を押し、「そうだよ、さあ元気を出しましょう」と誰かが励ます。
本日の最終詣で、宮地神社に着いたのは正午を回った頃。
「やっぱり、けっこう時間がかかったなあ」「うん、もう、早う歩けんなあ」
とは言ったものの、皆さん、次なる会にも意気込み十分。
2月は「陣屋町足守町並み雛めぐり」電車を乗り継ぎ、徒歩で散策。
「う~ん、歩き甲斐あるぞー」(笑)
(レポート・写真 三宅 優)