■「新たけべの彩時季」
久方ぶりの「たけべ人」紹介。コロナ禍で人との接触に敏感になっている社会の中で、マスコミ記者に限らず当新聞も自粛する傾向が続く。
そんな折、「oniビジョン」の松本記者から「4月の移動で建部町担当が兵藤(ひょうどう)と言う新しい者に変わります」との連絡。
「ついては、その者といっしょにご挨拶に行きますがご都合は?」と聞かれ、「そうだ」と思い付いた。
「じゃあ、久しぶりにその方を紹介がてら”たけべ人”に登場して頂こう」
事前情報もまったくなし。さてさて、兵藤記者はどんなパーソナリティなのでしょう。本文をごゆるりとお読みください。
(取材・勝部 公平 三宅 優)
*掲載の写真は兵藤 氏より提供を頂きました
兵藤 秀郷(ひょうどう ひでさと)
昭和47年、名古屋市に生まれる。小学校2年生の時に岡山市へ移る。
一之宮高校を卒業後、岡山大学教育学部に入学。
社会人となりコンピューターのソフトウェアの会社に勤務したのち、26歳で北海道紋別の新聞社に入社。
その後、新聞社、放送局と職を重ね、2018年より「oniビジョン」にて働く。
(たけべ新聞) お生まれは名古屋だそうですが、岡山へはどういった縁で?
(兵藤)「小学校2年生のとき、ちょうどバブルの頃だったんですが父親が岡山に転勤しまして、その関係でこちらに住むようになりました」
じゃあ、学校もこちらを出られたのですか
「ええ、一之宮高校を出てから岡山大学教育学部に入学しました。その前の中学では学校がコピーをしてくれて校内新聞を出したりしていました(笑)」
えっ、もうその頃から新聞をやりたいと思っていたのですか
「そうですねえ、興味を持ったのは小学校高学年の時で、もともと母親が長野の諏訪でタイプ印刷屋をやっていたのですが、そういう影響があるのかなと思います。
一之宮高校には新聞部がありましたので部長をしていました。大学に入っても新聞教育に関心がありました」
それで、新聞社で働くことになったわけですね
「いや、初めはソフトウエァの会社で働いていたのですが、その頃、たまたまスロバキアを旅行中に日本人のフリーライターと出会いまして、
ヨーロッパではフリーが格上でやる気次第だと言われ、刺激を受けたのがきっかけです。26歳の時、ネットで”記者募集”と検索して、北海道、紋別の新聞社が応募しているとわかりました」
いきなり北海道の紋別へ行かれて、どんなことをされてましたか
「紋別市はオホーツク海に面した場所にあるのですが、そこに北大の低温研究所の流氷レーダーがあるんです。それが自分の新聞に”今日の流氷”情報として載るんです。日常的に流氷は沖合に見えるんですが、接岸して来るとずっと冷え込むんです。
新聞は紋別市を中心としたローカル紙だったのですが2000年初頭の北海道の地方都市というのは、いわゆる地域の衰退が本土で起きる10~15年早く進んでいてあちこちで見受けられました。人口の減少が極端で目に見えてわかるくらいに、そんな中で取材をしていました」
なるほど、そこからはどうされましたか
「ええ、そこに4年いて長野日報へ移りました。長野日報は諏訪市を中心とした地方紙なのですが、もともと親の出が諏訪だったので縁がありました」
そこでの仕事は?
「整理部に所属して紙面組をしたり、外の支局を回ったり幅広い仕事を覚えられました。
特に印象に残っているのは、当時の岡谷支局長から原稿の描き方、取材の仕方について学んだことで、”5W1H”、いつ、どこで、だれが・・・以外の”何故そうしたか、そうなったのか”それを聞くのが記者の仕事だと教わりました」
いい出会いがありましたね、それからどうされましたか
「2007年まで長野にいて、それからNHK札幌放送局の岩見沢報道室に入りました。それと言うのは、岡大の頃、アルバイトでNHKのカメラ補助員をしていて、その時の知り合いから声をかけられました」
またまた、ここでの仕事をお聞きしますが
「ここではもう、夕張市の財政破綻から再建の5年間をほぼどっぷりですね。それまで北炭に頼り切りだった行政が石炭から観光産業に向かうと言って、テーマパークをつくったりスキー場を開設したのですがことごとくダメで、その負債をずっと隠して来たのが破綻の原因です。
バブル時は中田鉄治さん(元・夕張市長)が、自治体は倒産しないと言ったそうですが。
2008年、ロボット大科学館の解体を取材したのですが、ロボットが壊される情景が記憶に残ります。
それと2011年の統一地方選挙で現・北海道知事の鈴木直道さんが、夕張市長に立候補して史上最年少で市長に選ばれたこと、これもみっちり取材に当たりました」
建部でも、そのミニ版のような「釣りと桜と温泉の町」観光立町を謳った時期がありました
「そう、あの当時、地方で盛んにそんなことが行われていましたね」
結局、広告代理店か何かに乗せられただけで終わりました(笑)夕張からはどうされましたか
「5年、夕張にいて、それから広島放送局の制作部門に移りました。テレビニュースのセクションで、夕方のお好みワイドを中心にローカルニュースをつくる仕事でした。
ここでは5キロくらい離れた下宿先から会社まで広電に乗って、初めて通勤定期で通ったのが記憶に深いです。それまで、そういった決まった職場を往復する仕事ではなかったですから(笑)」
なるほど、それからまだ転機が訪れましたか?
「はい、これまで札幌、広島でも契約社員だったので正規社員の職を探していたのですが、たまたま北海道の遠軽新聞社から正規でと声をかけられまして、再び北海道に行きました。
そこで、ゆくゆくは親を呼び寄せようと考えていたのですが、2015年に母の病気がわかって、看病のため岡山に戻りました」
長く岡山を離れていて、戻られた時の印象はどうでしたか
「丸15年、離れていましたので、それこそ浦島太郎だったですね。合併して政令都市になって御津や建部が岡山市だとは思いもよりませんでした。区役所があるのも知りませんでした(笑)」
それで、oniビジョンさんで仕事をされるようになったのはいつからですか?
「母が亡くなりまして、岡山の家から通える所ということで2018年から。でも年齢もありましたし、まさか岡山でこの仕事ができるとは思っていませんでした」
好きな仕事ができるのが一番ですよね。さて仕事の話しばかりお聞きしましたが、仕事以外の趣味とかはお持ちですか
「絵を描くのが趣味ですかね・・・」
ほう、絵ですか、どんな絵を描かれるのですか
「ポンチ絵から水彩まで、幅広くやっています」
(松本記者)「以前、動画にイラストが必要で描いてもらったのですが、サササっとすごい速くて上手なんで驚きました(笑)」
「建部ニュース」でも観れるといいですね。あと、好きな食べ物とかありますか
「蕎麦(そば)が好きですね」
では「〇〇亭」とか「△△庵」とかを食べ巡るわけですか
「いや、長野なので、あくまで信州そばです。高校の時、学食の食券機に”ソバ”と書いてあったので、”おっ蕎麦そばがある”と押したら、ラーメンが出てきた。
それで、そうかー、岡山ではソバと言えば、中華ソバだったと気づきました(笑)」
たしかに、岡山人はラーメンの方が好きでしょう。では最後に、これから建部を担当されるわけですが、抱負をお聞かせ下さい
「そうですねえ、まあ今まで辺境の地でやっていたわけですし、どんな地域でも過疎はあるわけで、ただこれまでこの地域で誇れる良さというのを拠り所に暮らしてきたので、
そのことを目に見えるかたちで伝えていけたらなと思います」
どうも、ありがとうございました、ご活躍をお祈りします
(後記)
子どもの頃、描いた夢、それを実現している人はどれだけいるだろう。自分が将来なりたいと思った仕事に就けている、それは何よりも幸福であり羨ましいとさえ言える。
兵藤記者はまさにそういった一人だろう。提供いただいた写真からは、自然の持つ厳しさやそこに生きる人々の温もりが伝わって来る。本人は「いえ、自分の好き勝手に生きてきただけで、今になって親不孝だったことを嘆いています」と反省しきりだが、お母様も
息子が夢を追いかけている姿にきっとご満足だったに違いない。
建部でのこれからの活躍に期待したい。
(レポート・三宅 優)
なにやら”怪しい”?出で立ちの男性、右手に紙筒を持ち、自らブツブツと「な~んにも、あやしくありませんよ、あやしくないですよ」
それから「魔法の粉をパラパラパラ、パラパラパラ」そして「ワン・ツー・スリー・フォー!」掛け声とともに、あ~ら不思議、筒からコインがザックザク。おなじみのマジックの定番。
この日、約1年ぶりに開かれた建部町公民館主催「みんなの喫茶室」でのお楽しみコーナーでの一コマ。毎回、一人のゲストを招き、お話を伺ったり、得意な芸を披露していただく。そのあと、淹れたてコーヒーと手作りケーキを味わいながらの座談会がこれまで。
記者も10年ほど前、ゲストで呼ばれ、3回のテーマで1回目、絵の話しをして2回目、映画の話をした。次は文学についてと約束していたが、まだ3回目はお声が掛からない(笑)
再開、初回を受け持ったのは宮地にお住いの尾島 昭正さん。公民館で前に開かれた「手品の講座」の受講者で、その成果を持っての登場。
まずは、魔法の筒から始まり、ロープの不思議、3本のロープが2本になり1本に。3つのハンガーがいつのまにか数珠つなぎ、破いて細かくした広告紙が「エイ、ヤッ」で元の一枚に。
つづいては、ご存じ「皿回し」に挑戦。「あれれ、何でそんなに上手に回るの?」
観客の羨望の眼差しが一手に集中したのは、ただの紙きれが、なんと千円札に変わった時。
「ああ、これ私の家でも、してほしい、紙はあるから(笑)」
この日の会場はいつもの喫茶室ではなく、普通の会議室。飲食ができないのと換気上の配慮だろう、少し殺風景でもある。
しかし、それを感じさせなかったのは、
この日、尾島マジックを応援しようと集まった女性ファン。女性総活躍時代、男性より女性が多数を占めた「・・・喫茶室」の会は記憶にない。
演技中も「アキちゃん」「アキちゃん」と声が掛かり、昭(あき)ちゃんの人柄をうかがわせる。
さて、フィナーレは、な~んにもないはずの箱から「皆さんいつも明るく笑顔でお元気でネ!」の横断幕(拍手!)。
次回の「みんなの喫茶室 」は5月24日(月)午後1時半から。
(記事・写真 三宅 優)
昨日の大雨から一転して晴れ、建部の里山(富沢地区)は朝から大忙し。午前は街中からやって来た家族を迎えての「タケノコ掘り」。主催した岡山市環境学習センター「めだかの学校」の職員さんと記者(勝部)を含めた地域ボランティアで会場の準備。
密にならないように家族単位に椅子とテーブルを設置、里山の雰囲気を味わってもらうため、もみ殻で焼きいもをつくろうと松葉や小枝を集めて着火。
煙突から煙がもくもくと出始めると取りあえず準備完了、一安心。
今年の参加定員は例年の半分で申し込みを受付、この日、5家族16名の参加でスタート。何でも「めだかの学校」には申込開始と同時に予約が殺到したとのことで、
予約に漏れた方には大変申しわけないことになりました。
竹林山に集合した参加者は、さっそく山の持ち主、松本さんと杉本さんから竹の子掘りのデモンストレーションを受けました。そして広い竹林の中、家族単位で一人一本づつ大きな鍬を振りかざしながら次々と掘っていきました。
結果はどの家族も大収穫に顔をほころばせ、堀った竹の子の調理の仕方、糠(ぬか)を入れてアクとりをする方法などをしっかり聞いて「タケノコ掘り」は終了。
コロナのことがあり、昼食は地域のお弁当屋さんのおにぎりの支給となりましたが、自然に包まれてのランチはやはり格別。
その後タラの芽やフキとりなどをして里山を満喫して帰路につきました。
当日、記者(勝部)から「里山と循環型社会について」以下の話をさせて頂きました。
①日本人は世界の人々から「森の民」と言われるほど自然とのかかわりが深い国民。
②里山とは自然と人間の共生の場。
➂日本では循環型社会は古くからなされていた。
④これから大切なことは新しいかたちでの持続可能な循環型社会づくりで、そのための活動と教育が大切。
午後からは、同じ富沢地区にある足や腰にご利益があるという「腰折れ地蔵様」の春祭りに参加しました。
地域の篤志家が作られた手づくりのテーブルや椅子に座り18名ほどの参加で、成就寺の森本上人の先達で、花と緑の中で行なわれました。
例年なら交流会がおこなわれるところですが、この日はお供えのお菓子や飲み物は持ち帰りとなりました。
それでも集まられた方たちは、しっかりとお地蔵様に手を合わせたことで心がなごみ、マスクの下に笑顔が覗いていました。
(記事・写真 勝部 公平)
同じ里山でも、町中に位置する福渡。古来から旭川を行きかう舟の停泊地として栄えてきた。それはまさに里で獲れた物を町に運び、町でつくられた品を里に届ける循環型社会だった。
そんな里には必ず鎮守の森が祀られる。福渡には八幡神社がその一つ。
今朝は8時から、町内の人たちによる境内一斉掃除。高齢化が著しいのは日本の田舎町のどこもいっしょ、ここは55%に迫る。
それでも今日の顔ぶれは若い人が半数。
皆が共通に大事にしようとするものがある、それこそが持続可能社会のカナメと言える。
午後からは、当方(記者宅)もタケノコ掘り。と言っても、食べるためではなく除去。
雨から一日で、それまで気配さえなかった場所に「ドデ~ン」とそそり立つ。放っておくと道にかぶさるまでに育つので、その前に対処。
見ると、あっちにもこっちにも「ニョッキ、ニョッキ」
「この生命力があれば高齢化も過疎化も少子化もないだろうなあ」ふと考えてしまった(笑)。
(記事・写真 三宅 優)
当新聞でもこれまで何度か取り上げてきたが、建部町に数多く点在する空き家、その活用を推進しようという任意組織「たけべ家おこしプロジェクト」(勝手に略して”たけべ家オコ”)が
立ち上がって1年。その間はコロナ災禍で際立った活動をやむなくされてきたのはどこも同じだが、それでも2カ月に1度の役員会は続け、
ライン上でもメンバー間でグツグツと煮詰め作業が行われてきた。
たぶんこれは組織が立ち上がる中での試金石で、具体的には売り主と探し主との思惑の差をどう標準化していくか。はじまって間もないが、すでにわずかだが関わる中での失敗、成功を体験、その過程で組織のプロ化の必要性が明確になってきた。
この日は数カ月ぶりに会する理事会。今回も役員以外に岡山の大学のインターン生
が聴講に参加とあって、おじさん、おばさん(失礼!)らは若者を前にやや緊張気味。
(垣本会長)「え~と、今日は次年度の活動計画を練るわけですが、その前に近況報告をどなたか?」
「ハイ!」記者(三宅)が手を上げる。
「私は担当するF町内の空家について情報収集したのですが、この活動についてまだ知らない人が多くて協力を得るのがムツカシイと感じた」
さっそく、「そうだ、地元に対しての広報紙(回覧板)を作ろう」とメンバーが提言、方向決定。
続いて田地子区長の本田さんから、
「かねてから上げてあった民家が借手が見つかり、今度、私が中に入り、双方で取り交わしをいたしました。これがその見本です」
さすが実務に長けた本田さん、今後、不動産屋さんにお願いするほどではなく、ちょっとした紹介での家利用が増える可能性があり、それを前提にした取り交し書。
「これはよくできていますね、さっそくこれを基に借り手と貸し手が迷惑をこうむらないような内容に標準化しましょう」と、これも一歩前進。
(垣本)「では、次に移ります、次は来年度の活動計画についてですが・・・」
(大塚)「前回までの案では、空き家調査の進展、空き家の活用と相談窓口のパンフレット作成、インターネットでの情報発信などがあります」
この後、具体的にどの施策を推し進めるか意見が交わされる、と言っても”会議然り”で進むわけではなくお悩み相談あり、横道脱線あり。(この”井戸端会議風”がマコトよろしい)
一通り終え、聴講していたインターン生に感想・質問を聞く。
(A君)「定住してもらうための支援策とかは考えていますか?」
(平田副会長)「いえ、まだ、そこまではできていません、スミマセン・・・」(笑)
(Bさん)「回覧版は良いアイデアだと思いました」
(Cさん)「私は(情報は)ラインとインスタだけですが、マンションなので掲示板は観ます」
なるほど、奇しくもこの日、テレビ情報世代とスマホ情報世代が会しているわけで、これからはこの組合せが必要だと感じた。
閉会後、メンバーはそれぞれに「じゃあ、ラインに案を上げますから、ヨロシク!」(笑)と声を掛け合い帰路に着く。
令和3年春、ここから自分たちの住んでいる地域が変わる?たとえ実を結ばなくったって、そんな予感がうれしい・・・。
今「たけべ家オコ」が”オ・モ・シ・ロ・い!”
(記事・写真 三宅 優)